今回は道元(どうげん)についてお話をします。
道元は、瑩山(けいざん)とともに曹洞宗の宗祖といわれ、道元を高祖、瑩山を太祖といい、合わせて両祖と称しています。
さて、道元は、正治二(一二〇〇)年、貴族の子として京都に生まれたと言われています。幼い頃は何不自由なく暮らしていましたが、十三歳の時に貴族の道を捨て、仏門に入りました。ところが当時の比叡山に道元が求めるものはなく、山を降りて各地の寺で修行に励み、貞応二(一二二二)年には、宋(中国)に渡り、天童山で如浄(にょじょう)と出会い、曹洞禅を学び、悟りを得て帰国しました。
帰国するとさっそく立教開宗宣言の書とも言える『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著しました。その内容はあまねく座禅を勧める内容であり、道元は京都の建仁寺、深草と移り、門弟の教育に力を注ぎながら、その考えを広めていきました。ただ、当時の比叡山に道元の教えは受け入れてもらえずに多くの弾圧を受けたと言われています。
その後、寛元元(一二四三)年に、越前(福井県)に移り、翌年永平寺(建立当初は大仏寺)を開き、禅の教えを深めていきました。禅の教えを論理的に表現した代表的な著書『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』により、近代・現代の思想にも道元は大きな影響を与えています。道元の教えは「只管打坐(しかんたざ)」といい、ひたすら座禅に打ち込むもので、「黙照禅(もくしょうぜん)」といわれます。座禅するときは何も考えず黙々と座禅するのみで、悟りすら求めないというものでありました。これは、座禅を行う時の心得でもあり、また日常生活のすべてが禅の心に裏付けられたものでなければならないということでもあったと言われています。
道元は建長四(一二五二)年、病気療養のため京都に戻りましたが、翌年、五十四歳で寂されました。つづく
グラコム2014年10月号掲載