日本の宗教のいろは

日本の仏教に関係の深い人物⑯

 今回は、隠元(いんげん)についてお話をします。
隠元は、隠元隆琦(いんげんりゅうき)といい、一五九二年に中国福建省で生まれました。中国の臨済宗を代表する高僧の一人で、四十六歳の時に中国の黄檗山(おうばくざん)萬福寺(まんぷくじ)の住職となった人物です。その後、日本からの度重なる招請により六十三歳の時に来日。しかし、日本に根付いていた臨済宗は、中国のそれとは大きく異なっていたため、隠元の禅は異なるものとみなされ、臨済禅宗黄檗派などと呼ばれていました。隠元は、明の時代の臨済宗の高僧であったため、その禅を積極的に伝えました。「念仏禅」という座禅による修行や、「弘戒法儀(ぐかいほうぎ)」という受戒の指導書。「黄檗清規(おうばくしんぎ)」という禅の寺院での規則集などを伝え、当時停滞をしていた禅宗の僧侶にたいへん大きな影響を与え、自己改革を促すこととなりました。
隠元は三年の予定で来日しましたが、多くの方々に引き止められ、当時の将軍である徳川家綱に拝謁した後、山城国宇治に土地を賜り、寺院を創設。その寺院は、自身が住職であった明の寺院の山号寺号をそのままにした、黄檗山萬福寺と名付けられました。その後、八十二歳で寂するまで日本にとどまり、宗教のみならず文化面でも多くの影響を与えたと言われています。建立された萬福寺は後に改宗されて黄檗宗として独立した後の大本山となりましたが、建築や仏像などは明時代後期の様式で造られ、儀式作法から精進料理に至るまで日本の多くの寺院とは異なる様式をしています。
また、隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹なども隠元が中国からもたらしたものと言われています。そして、現在もお茶と言えば一般的には煎茶を指すことが多いように、日本人には欠かせない飲み物である煎茶の風習もです。「煎茶道」の開祖ともいわれ、全日本煎茶道連盟の事務局は萬福寺内に置かれ、同連盟の会長は同寺院の管長が兼務することが慣わしになっています。 つづく
グラコム2015年6月号掲載

  2015/05/25   gracom
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