日本の宗教のいろは

日本の仏教に関係の深い人物⑱

 今回は、良寛(りょうかん)についてお話をします。
良寛は、江戸時代後期の曹洞宗の僧侶であり、歌人、書家としても有名です。生まれは、一七五八年で国は越後。出雲崎にて名主を務める家の長男でした。幼いころより何不自由なく育ち、学問にも親しんでいましたが、十八歳で出雲崎尼瀬の曹洞宗の寺院、光照寺に入り出家。その後、修行を重ね、二十二歳の時に備中国玉島の円通寺に移り、国仙和尚(こくせんおしょう)を師事し、修行に励みました。後に(※)大愚(だいぐ)という道号を賜っています。 国仙和尚が示寂した後は、諸国をめぐり、一つに定住せず空庵を転々として、修行しながら、仏法を庶民にわかりやすい言葉で説いて歩きました。そして三十代後半で越後に戻り、国上山(くがみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵に定住されました。
五合庵では、托鉢で生計を立て、托鉢で得た食料やお金が余れば惜しげもなく困っている方々に分け与え、誰とでも心温かく接し、あばら家の住まいには必要最小限の物しかなかったといいます。また良寛は、漢詩、和歌なども巧みで、書家としても有名でありました。老若男女、誰からも慕われて愛されていたといい、清貧でも心豊かな生活を送っていたと言われています。現在に残された多くの詩、歌、書の大部分は、定住していた五合庵やその後に移り住んだ乙子神社草庵の頃の作品です。
良寛は五合庵の後、六十歳前後で乙子神社の草庵に、また七十歳で島崎村の木村家邸内に住まいを移しました。つまり、生涯寺を持つことはありませんでした。木村家邸に移った頃に貞心尼(ていしんに)という尼僧が和歌を習うために弟子入り。貞心尼の自筆歌集である「蓮の露(はちすのつゆ)」の中には、良寛が晩年に貞心尼との間で交わされた和歌を読むことができます。その後、良寛は七十四歳で示寂されました。 ※…大愚良寛として今も使われている大愚の意味合いは、おおいに正直であるとか愚直であるとかの意味だと思います。国仙和尚から賜ったとの説が一般的ではありますが、諸説あるようです。
残念ですが、今回で「宗教のいろは」は最終回といたします。長い間ご愛読いただきました皆様には、心よりお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
グラコム2015年10月号掲載

  2015/09/25   gracom
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