日本の宗教のいろは

日本の仏教に関係の深い人物⑰

 今回は、白隠(はくいん)についてお話をします。
白隠は、白隠慧鶴(はくいんえかく)といい、一六八五年に駿河国原宿(現在の沼津市原地区)で生まれました。五百年に一人の名僧と言われ「駿河には過ぎたるものが二つあり、一つは富士のお山に原の白隠」とまで謳われました。また、臨済宗中興の祖と言われている江戸時代中期の禅僧です。
白隠は、十五歳で松陰寺(しょういんじ)に入門して出家しました。その後、様々な場所で修行を重ねましたが、特に大きな影響をもたらしたのは、道鏡慧端(どうきょうえたん)という宋との出会いでした。道鏡は、白隠の高慢さやうぬぼれを見抜き、厳しく指導を行い、結果として白隠は、本当の悟りを得られたのだとも言われています。そのような白隠ですが、修行中に「禅病」にかかったと言われています。禅病とは、自律神経失調症のようなもので、修行をこれ以上続けることができなくなり、京都で白幽子(はくゆうし)という仙人に「内観法」を学んだことで完治したと言われています。そのことについて、後年「夜船閑話(やせんかんわ)」という著書を残しています。
また白隠は、臨済宗を立て直すための修行の形を整え、学ぶべき公案を分類(※)し、体系づくりを進めました。公案とは修行の坐禅時に行う禅の問答です。その上、人々に教えを説くときには常にわかりやすい言葉遣いに努め、「坐禅和讃」を著して、坐禅の目的や本質をわかりやすく伝えました。そのことで多くの信者が集まり、禅(臨済宗)が復興したと言われています。
白隠は、禅を普及させる一つの手法として、その教えを表した書画を数多く描き、個性豊かでユーモアに満ちた独自の世界を作り出しました。多くの功績を遺した白隠でしたが、一七六八年、八十四歳にて、松陰寺で示寂されました。
※…公案を法身(ほっしん)(代表的な公案として「隻手音声(せきしゅおんじょう)」等があります)、機関(きかん)、言詮(ごんせん)、難透(なんしゅう)、向上(こうじょう)などに分類し、段階を重ねて公案を説いていくことで悟りに至ることを体系化しました。つづく
グラコム2015年8月号掲載

  2015/07/25   gracom
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