今回は、蓮如(れんにょ)についてお話をします。
蓮如は、浄土真宗第七世「存如(ぞんにょ)」の長男として応永二十二年(一四一五年)に生まれました。幼名は布袋丸。その後、永享三年(一四三一年)、天台宗門跡寺院の青蓮院において得度。 当時の本願寺は勢いがなく経済的に不遇で荒寺同然でした。しかし、長禄元年(一四五七年)に蓮如が門主となってからは、親鸞聖人の教えをわかりやすく手紙の形式で綴った「御文(おふみ)」を使ったり「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」などの名号を用いたりして信者に親鸞の教えを説いていきました。そのことに加え、蓮如の組織化の素晴らしい手腕で本願寺の時勢は一転し、浄土真宗内の最大派閥になっていきました。そのことから蓮如は「浄土真宗中興の祖」と言われています。
しかし、蓮如が教えを全国に広め、多くの信者ができたことで、比叡山を刺激し、本願寺は弾圧されることになりました。ついには、比叡山の衆徒が本願寺を破却するという事態にまで発展しました。それほど蓮如の影響力が大きく、多くの信者ができたことがわかると思います。蓮如は本願寺を逃れ、各地を転々としたのち、吉崎(越前国)へと移住されました。吉崎で精力的に活動をされたお蔭で「蓮如ブーム」とも言われるほど民衆に親鸞の教えが浸透していきました。
その後、蓮如は摂津・河内・和泉で布教活動を続け、ついに文明十三年(一四八一年)、京都の山科に御影堂・阿弥陀堂を建て、本願寺の再興を果たしました。山科本願寺の建立以降、真宗の他派が相次いで多くの門徒と共に本願寺に帰参し、本願寺は全国的な大教団へと発展しました。蓮如は延徳元年(一四八九年)ご隠居されましたが、晩年も教化の手を休められませんでした。明応八年(一四九九年)に多くの弟子や門徒たちに見守られて八十五年の生涯を終えられました。つづく
グラコム2015年4月号掲載