今回は、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)についてお話をします。
一休は一三九四年、後小松天皇の(※一)「落胤(らくいん)」として生まれたという説が有力です。また皆様は、一休というと「一休さん」で有名な「とんちの一休」とか、晩年に盲目の美女「森侍者(しんじしゃ)」と恋愛した風狂の破戒僧とかとしてご存知の方が多いのではないでしょうか。
さて、一休の幼名は千菊丸。六歳で京都の臨済宗安国寺に入門し、受戒して「周建」と名付けられました。その後、十七歳で西金寺の謙翁に師事し、「宗純」と改名。その師事した謙翁の死後、大徳寺の華叟(かそう)の弟子となり、その時に出された公案に対して「(※二)有漏地(うろじ)より、無漏地(むろじ)に帰る一休み 雨ふればふれ 風ふけばふけ」と答えたことから「一休」の道号を得たと言われています。
青年期の一休は、戒律を守り、貧苦に堪える時代を過ごし、二十七歳で悟りを得たと言われています。しかし、その間の臨済宗の僧侶たちの状況は、戒律が乱れ、俗世界と変わらない状態であったと言われ、そんな状況に嫌気がさした一休は、寺にとどまることなく一般衆生に禅の教えを説いて歩きました。そして、戒律を破ることをいとわず、詩も詠えば、画もたしなみ、庶民にはたいへんな人気を得た反面、禅僧たちからは煙たがられる存在であったようです。ただ、浄土真宗の中興の祖である「蓮如(れんにょ)」とは親鸞聖人の二百回忌で出会い、お互いに信頼厚く、親交が深かったと言われています。
晩年の一休は、庶民に大変な信頼を得ていたことを買われ、重要な職を次々と任されました。応仁の乱で荒れ果てた京都の臨済宗大徳寺派の大本山である大徳寺の再興も任されましたが、住持として住むことはせず、酬恩庵(しゅうおんあん)に住み続けました。 そして、一四八一年、その酬恩庵にて八十八歳で入寂しました。
※一 「落胤」…身分の高い男が正妻以外に産ませた子。おとしだね。とも言われる。
※二 有漏地とは煩悩の世界、つまり生きている世界、また無漏地とは涅槃(ねはん)の世界のことをいう。つづく
グラコム2015年2月号掲載