日本の宗教のいろは

日本の仏教に関係の深い人物⑬

 今回は日蓮(にちれん)についてお話をします。
日蓮は、承久四(一二二二)年、安房国東条郷(現在の千葉県安房郡)に漁師の子として生まれました。十二歳で天台宗清澄寺(せいちょうじ)に入り修行を重ね、十六歳で師である道善房(どうぜんぼう)のもとで出家。是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)を名乗り、その後は京都をはじめとして各地において遊学され、『法華経』こそが釈尊の真実の教えであり、拠りどころとすべき唯一の経典であると確信しました。建長五(一二五三)年四月二十八日、清澄寺のある清澄山の旭が森において「南無妙法蓮華経」を初めて唱えて立教開宗の宣言をし、同時に名前を日蓮と改名しました。日蓮が三十二歳のときです。現在、日蓮聖人は日蓮宗の宗祖であり、総本山は山梨県にある身延山久遠寺(くおんじ)です。
その後、日蓮は『法華経』だけが唯一の教えであると説き、他宗を強烈に批判したために東条の地を追われ、鎌倉の松葉谷(まつばがやつ)に草庵を構えました。このころから世の中は天災、飢餓、疫病、戦乱等が相次ぎ、まさに末法の世の様相を呈していたことを憂いた日蓮は、文応元(一二六〇)年「立正安国論(りっしようあんこくろん)」をまとめ、前執権であった北條時頼に上呈しましたが決して受け入れることはありませんでした。
その後も日蓮は、他宗を強烈に批判しながらの布教活動を行い、(※)数々の法難を受けましたが力強く活動を行ないました。晩年の九年間は身延山に移り、末法の世こそ法華経が広まるべき時であることを記した「撰時抄(せんじしょう)」や亡き師の道善房を偲んで報恩回向についての心情を述べた「報恩抄(ほうおんしょう)」などを著し、門弟を指導することで過ごしました。弘安五(一二八二)年、病のため身延山をおり常陸国に向かいましたが、途中病が重くなり、同年一○月一三日、武蔵国池上(現在の東京都大田区)において、六十一歳で没しました。
※松葉谷の焼き討ち、伊豆流罪、小松原の襲撃、龍の口での斬首を免れての佐渡遠流が四大法難として知られています。つづく
グラコム2014年12月号掲載

  2014/11/25   gracom
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