日本の宗教のいろは

日本の仏教に関係の深い人物⑪

 今回は栄西(えいさい)についてお話をします。
栄西は、一一四一(永治元)年、備中吉備津(現在の岡山市)の神宮の家で生まれました。十一歳で安養寺の静心和尚に師事、その後十三歳で比叡山にのぼり、おもに天台教学を学んだと言われています。当時は、比叡山でも世俗でも争いが絶えなく、比叡山を立て直すべく宋に渡り「天台章疏(てんだいしょうそ)(※簡単に言えば天台宗の仏教書のこと)」六十巻を持ち帰りました。また、宋でお茶を飲んで疲労回復したことをきっかけとして、日本にお茶をもたらすことにもなりました。のちに、お茶の効用を説いた「喫茶養生記」を著しています。「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」と記され、お茶は以前から日本にも伝わっていましたが、一部の上流階級だけではなく、一般に広く広めたことで、栄西は茶祖としても有名です。
さて、宋から戻った栄西は、精力的な活動をしていましたが、最澄が開宗した当時の天台教学を再興するためには、釈尊の生誕地であるインドへ渡る必要があると考え、再び宋へ渡りました。しかし、インドへは行くことは叶わず、替わりに、臨済宗黄龍派(りんざいしゅうおうりゅうは)の虚庵懐敞(きあんえしょう)と出会い、五年に渡り師の下で禅の修行に励み、悟りを得たという印可(いんか「お墨付き」)を受けて帰国しました。つまり、禅によって天台教学の再興を図ろうと考えたのです。九州に次々と禅宗寺院を建立し、京都へ広げる努力をしましたが、比叡山からの強い反発にあい、禅宗停止の命令が下りました。そのとき、「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」を著し、自分が持ち込んだ禅は、最澄が教えた「円・密・禅・戒」の四種相承(ししゅそうじょう)と同じものであり、国を護るためにも有用であると説きましたが、京都における布教活動は困難を極め、教化を鎌倉に移しました。公家社会から武家社会への移行期にあり、鎌倉幕府から支援をもらうことが出来た栄西は、北条政子が建立した寿福寺にて初代住職となり、その後、京都においても、将軍である源頼家により、建仁寺が栄西を開山として建立されました。建立当時の建仁寺は、三宗兼学(さんしゅうけんがく)といい、天台、密教、禅の道場として栄えました。建仁寺は様々な困難がありましたが、現在、臨済宗建仁寺派の大本山となっています。つづく
グラコム2014年8月号掲載

  2014/07/25   gracom
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