日本の宗教のいろは

日本の仏教に関係の深い人物⑨

 今回は親鸞(しんらん)についてお話をします。
親鸞は、一一七三(承安一)年、京都・日野の里にて、貴族の家の生まれであるといわれています。九歳で青蓮院(しょうれんいん)の慈円(じえん)のもとで出家し、比叡山で二九歳までの二十年間修行したと伝えられていますが、生まれも育ちも本当に確かなものはありません。
比叡山には親鸞が求めるものはなく、山を降り、京都六角堂に百日間の参籠(さんろう)をしました。その終わりのころに、夢の中で、聖徳太子のお言葉を受け、東山吉水で専修念仏(せんじゅねんぶつ)を広めていた法然上人のもとに赴きました。その後、比叡山からの激しい糾弾に会い、法然上人が讃岐に流罪となるのと同時に、親鸞も越後(新潟)に流されたのでした。そのころ親鸞は、「愚禿(ぐとく)」と名乗り、悲僧非俗(ひそうひぞく)の立場に立ちました。これは、国家の支配下に置かれているような既成の僧侶でもなく、煩悩に振り回された生活をする俗人でもないという意味。つまり、法然が広めていた専修念仏において、出家・在家の区別なく、阿弥陀如来の前ではみな平等であるという意味も込められていると考えられます。4年後に流罪が解かれた後には、京都ではなく関東へ向かい、常陸(ひたち)(茨城)を中心に積極的に布教活動をしました。そのころ親鸞は、『教行信証(きょうぎょうしんきょう)』を著しています。全部で六巻。絶対他力の念仏往生の信仰を確立するためのものであり、阿弥陀如来の本願による衆生救済の普遍性を説いています。また同時に、親鸞は念仏の恩恵に浴していない人々へも真剣に布教しました。そのように積極的にどんな人にも布教活動をしてきた親鸞ですが、念仏者が増えるにつれ、様々な妨害や弾圧があり、関東の地を離れなければなりませんでした。その後、親鸞は京都に移り、亡くなるまでの間は精力的に書物を書き、関東の門弟たちの求めに応じて、手紙で教えを説き続けました。そして九十歳の一二六三(弘長二)年十一月二十八日、末娘の覚信尼(かくしんに)にみとられて生涯を終えられました。つづく
グラコム2014年4月号掲載

  2014/03/25   gracom
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