日本の宗教のいろは

日本の仏教に関係の深い人物⑧

 今回は法然(ほうねん)についてお話をします。
法然は長承二(一一三三)年、美作(みまさか)国(岡山県)に生まれ、幼名を勢至丸(せいしまる)といいました。九歳のとき、父が夜討ちにあって亡くなる前に言い残した言葉「全ての人が救われる仏の道を求めて欲しい。」で出家。十五歳(一説には十三歳)のときに比叡山にのぼり、天台教学を学び修行を重ねましたが、求めるものが得られずに、黒谷の叡空(えいくう)に教えを求めました。
この時から法然房源空(ほうねんぼうげんくう)と名乗り、勉学に励む法然は、いつしか「智慧第一の法然房」と呼ばれ、5048巻にものぼる「一切経」を五度も読破したと言われています。 その後二十数年の歳月を経て、善導(ぜんどう)大師の「観経の疏(かんぎょうのしょ)」の中から<現代訳…常に南無阿弥陀仏とお名号を称え離れないのが仏道修行する者の勤めだ。弥陀の本願に叶う道だから>の文を発見され、ついに、法然が求め続けていたものにたどり着いたのです。すなわち”煩悩は煩悩のままに、悩めるものは悩めるままに念仏すれば、仏はあまねく人々を救うと誓われているのだからそれだけでよい。「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」こそ身分の上下、貧富の差、老若男女などの区別をこえて、すべての人が救われる道だ“と。
かくして法然は、比叡山をおりて、吉水草庵(よしみずそうあん)(安養寺)を本拠として、誰へだてなく布教伝道活動をしました。そのため法然は民衆仏教ともいわれる鎌倉仏教の先駆者となりました。しかし、専修念仏があまりにも広がったため、比叡山からの糾弾が激しく、法然は七十五歳にして讃岐に流罪とされてしまいました。その後、赦免されて京都に戻りましたが、建暦二(一二一二)年、八十歳で入寂しました。
そして、法然が称名念仏の大切さを説いて著した「選択(せんちゃく)本願念仏集」、また、亡くなる前に念仏の肝要を記し「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」と記した「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」は現在でも浄土宗の大切な教えです。つづく
グラコム2014年2月号掲載

  2014/01/25   gracom
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