今回は良忍(りょうにん)についてお話をします。
良忍は、十二歳で比叡山にのぼり、良賀僧都に師事して得度。光乗房良仁と名乗り、京都大原へ隠棲した後に良忍と改名。比叡山では、天台はもとより密教や戒律を学びました。二十三歳で京都大原に隠棲。熱心な念仏者であり、法華経の修行僧でした。
四十六歳の時、念仏を称えている最中に阿弥陀仏から、幸せの世界に至る方法として融通念仏の法門を授与されました。その授与された偈文(げぶん)は「一人一切人 一切人一人」つまり、一人の念仏は万人におよび、万人の念仏が一人に及ぶということで、阿弥陀仏の救済力が融通するというものでありました。それを「大念仏」とも言って、融通念仏宗の教えの要になっています。
また、阿弥陀仏は、法門を告げ終わったあとに白い絹を良忍に授けたと言われています。中央に阿弥陀如来が立ち、その周囲を十体の菩薩が取り囲んでいるお姿で、現在、融通念仏宗のご本尊となっている「十一尊天得如来(じゅういちそんてんとくにょらい)」です。その後、良忍は、市中に出て念仏勧進を始め、鳥羽上皇も宮中に良忍を招いて、皇后や百官に融通念仏会を修し、自ら日課百遍の念仏を誓約されたそうです。
良忍は「声明(しょうみょう)」についても有名です。 声明とはインド五明(ごみょう)の一つで音声、言語を研究する学問で、転じて経文に曲節を付けて唱える梵唄(ぼんばい)を意味するようになりました。声明は古くにインドから中国に伝わり、最澄(さいちょう)が入唐して日本に梵唄を伝えたのが天台声明の始まりといわれています。その後、円仁が中国天台山を模して大原の来迎院(らいこういん)一帯を魚山と称し、仏教音律の根本道場として興隆しました。その後、一時衰退したものを良忍が再興。良忍は、音階を整理し、実技と理論を建て直し、在来の法流を統一して魚山流声明を大成しました。それが、声明の中興の祖として仰がれているゆえんです。つづく
グラコム2013年12月号掲載