今回は空海(くうかい)についてお話をします。
空海は、讃岐国に生まれ、様々な学問を学んだ後、仏門を志しました。二十四歳の時に著し、その後改稿された『三教指帰(さんごうしいき)』は、儒教・仏教・道教の優劣を論じ、仏教が最も優れているとしています。
その後、留学僧として唐に渡り、当時の都・長安の青龍寺の恵果(けいか)に学び、阿闍梨(あじゃり)という指導者の(※一)灌頂(かんじょう)を受け、秘法を授かり、密教のすべてを学びました。このときに授けられた灌頂が「遍照金剛(へんじょうこんごう)」(大日如来の蜜号)です。本来二十年にわたる留学期間を二年に短縮し、八〇六年に帰国しました。
その後入京し、中国密教を広め、高雄山寺や乙訓寺で活動し、さらに独自の考え方を進めて真言宗を開きました。八一六年には高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を開基、八二三年には東寺(とうじ)を嵯峨天皇より賜り、真言密教の道場として多くの弟子を育てた。また、「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」や要約した「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」などで真言密教の体系を述べるなど、多くの著作も執筆している。
また空海は、仏教のみならず当時の唐の新しい文化も持ち帰った。のちに弟子の真済がまとめた「性霊集(しょうりょうしゅう)」からもわかる通り、漢詩文にもすぐれ、書道家としても知られていた。また、社会事業にも貢献し、水害の多かった讃岐の満濃池(まんのういけ)を改修したり、日本最初の大学と言われる「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を創設して一般の教育にも努めたりした。
空海はその後も幅広い活動を展開し、八三五年、六十二歳で高野山に寂したが、のちに醍醐天皇から弘法大師という諡号(しごう)を下賜され、今日まで広く宗派を超えてさまざまな形で信仰を集めています。
※一…灌頂とは種々の戒律や資格を授けて、正当な継承者となるための儀式。つづく
グラコム2013年8月号掲載