今回は最澄(さいちょう)についてお話をします。
最澄は、日本の天台宗の開祖として有名。十二歳で近江の大安寺で行表(ぎょうひょう)のもとで出家。十四歳で得度し、修行を続けていたが、満足することなく比叡山にこもり、法華経や金光明経、鑑真が日本にもたらした天台宗の経典を研究。その後、遣唐使に同行する還学生(げんがくしょう)(短期の留学生)に選ばれて入唐。唐では短期間でありながら、天台教学、密教や禅そして(※一)大乗戒などの教えを多くの師から受けました。これを「円・密・禅・戒」の四種相承(ししゅそうじょう)と言い、このことから日本の天台宗は中国天台宗と異なり、総合仏教的な性格を持つことになったと言われています。
さて、最澄は「(※二)法華経(ほけきょう)」の一乗思想をしっかりと自身のものとするために入唐したとも言われています。この一乗思想とは「すべての人が成仏する可能性を秘め、三つの乗の考え方はそれぞれ独立した仏への道のようであるが、根本は一つである」という思想です。(乗とは仏のところに行くための乗り物という意)その三つの乗とは、利他の精神として、他人の救済を第一とする菩薩(ぼさつ)、自利の精神として自身の問題である、声聞(しょうもん)(仏の教えに導かれて得る悟り)・縁覚(えんがく)(自身で努力して得る悟り)があります。
この考えを中心とした最澄は、今まであった(※三)具足戒(ぐそくかい)を原則とした戒壇ではなく、大乗戒壇を設立しようと朝廷への働きかけに奔走しました。しかし、当時の南都六宗の側はこのことに大いに反発し、最澄の生前には実現しませんでしたが、、亡くなった七日後、延暦寺に設立が認められました。
※一、三…具足戒とは出家し、二百五十もの多くの戒を守ることで僧としての資格を得た。大乗戒は出家、在家を問わず、ある一定の戒を守ることで得られた。
※二…法華経…正式には妙法蓮華経といい、大乗と上座部(小乗)仏教の対立を超えたところに真理がある、釈尊が永遠の存在であることなどを説いた経典。つづく
グラコム2013年5月号掲載