今回からは人物にスポットを当てて仏教との関わりについてお話します。
最初に、忘れてはならないのが聖徳太子だと思います。
日本の仏教は、朝鮮半島の百済(くだら)の聖明王が仏像と経典などを欽明天皇に送った頃から始まるとされています。この後、蘇我氏と物部氏が仏教崇拝をめぐって争いを起こし、結局は物部氏が勝利を収めました。この後に、日本(当時の大和朝廷)は、本格的に仏教を受け入れることになりました。
さて、用明天皇の第二子として生まれた厩戸皇子(うまやどのおうじ)こと聖徳太子は、先の蘇我・物部両氏の争いで蘇我氏について戦いに参戦。物部氏側に対し、四天王の仏像を作り、「この戦いに勝った時には四天王をまつる寺を建立し、さらに仏教の普及に努める」という誓いを立て(諸説あり)、戦いに勝利したと言われており、その後、推古天皇の摂政として蘇我氏と共に天皇を補佐し政治に参加しました。
さて、太子は法隆寺、四天王寺などを建立。四天王寺は先の戦の誓い通りに、四天王をまつるための寺として建立したと言われています。また、仏教興隆の詔を出し、寺院建立と共に仏教の普及に努めたとされています。また、「十七条の憲法」を作成。その第二項には「三宝をあつく敬え、三宝とは仏・法・僧である。」と記し「三宝への帰依」を掲げました。遣隋使を派遣して、隋との直接交流を始めたり、冠位十二階の制定も行ったりしたことは良く知られています。
また太子は「※三経義疏(さんぎょうぎしょ)」という大乗仏教経典の注釈書を著したと言われ(真偽は諸説あり)、仏典をよく理解し、仏教の興隆に力を注いでいたことがよくわかります。その晩年は、政治から離れて、もっぱら、法隆寺や斑鳩(いかるが)寺などで仏教について修行し研鑚を積んだとされています。
※三経義疏…勝鬘経(しょうまんきょう)、維摩経(ゆいまきょう)、法華経(ほけきょう)のそれぞれの経典に太子が注釈を加えたとされる書のこと。つづく
グラコム2012年11月号掲載