今回は、「歎異抄(たんにしょう)」について少し触れてみたいと思います。歎異抄は親鸞聖人の晩年の直弟子であった唯円(ゆいえん)が著者だと言われています。唯円は、常陸国河和田(現在の茨城県水戸市河和田)の報仏寺の開基でもあります。
「歎異抄」がつくられた背景には、親鸞が東国から帰京したあとの東国で、親鸞の教えに対して様々な異議が生じ、異端を説くものが現れ、東国門徒が混乱しました。また、その後も親鸞の教えとは異なる教義を説くものが後を絶たなかったことから、唯円は、それらの教えは親鸞聖人の教えを無視したものであるとおおいに嘆き悲しみ、なんとかして事態を収拾すべく本書をしたためたと言われています。「歎異抄」の歎異(たんに)とは、前述したように字のごとく、正しい教えに反する異を歎(なげ)くという意味です。
「歎異抄」の構成は、前篇の師訓十章(十条)と言われる部分が、親鸞聖人がお話になった教えであり、後篇の異義八章(八条)と言われる部分が唯円の歎異を記しています。
皆様方もよく耳にする有名な言葉が第三章(三条)に書かれています。「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや・・・」の悪人正機つまり、悪人こそがまさしく教えの対象となる資質をもつ者と言われているものです。これは法然から親鸞へと伝わり、唯円が「歎異抄」に著したものです。ご承知の通り、阿弥陀仏の救いの趣旨を示したものです。
また、第七章(七条)には「念仏者は無碍(むげ)の一道なり。そのいわれ如何とならば・・・」と記されています。このことこそが、親鸞聖人がおっしゃる人生の目的であり真の幸福だと言われている気がします。つまり、阿弥陀仏の本願に救われることで、心から湧き出す念仏ができ、「無碍」つまり、何のさわりもない世界に向かうことができる。そんなことをおっしゃっているのではないでしょうか。つづく
グラコム2011年1月号掲載