「禅」についての五回目です。
禅と坐禅について考えてみます。
坐禅は禅には欠かせないものであり、坐禅をするときの足の組み方で、「吉祥坐(きちじょうざ)」と「降魔坐(ごうまざ)」の二つがあることは以前書き記したところです。
また、坐禅には「看話禅(かんなぜん)」(「公案禅(こうあんぜん)」とも言います。)と「黙照禅(もくしょうぜん)」と言われるものがあります。
「看話禅」とは臨済宗において修行の中心をなしています。修行者が悟りを得るために「公案」という問いを与えられ工夫参究(くふうさんきゅう)「修行に精進し、与えられた公案を考え抜くこと。」する修行の時に行う坐禅です。「公案」は中国の宋の時代にまとめられ、公案を使って修行する看話禅が大成しました。その後、日本では白隠慧鶴(はくいんえかく)によって五つに分類され、体系化されました。また白隠は、独自の公案も作り上げ、有名なものに「隻手(せきしゅ)の音声(おんじょう)」と言われるものがあります。「両手を打つと音が出るが、片手ではどんな音があるのか。」という問いであります。
一方「黙照禅」はただひたすら坐禅することを指し、坐禅で悟りを得るのではなく坐禅そのものが悟りであるという考え方であり、曹洞宗で多く用いられています。曹洞宗の宗祖である道元はこれを「只管打坐(しかんたざ)」と言い、少し表現が難しいですが、坐禅をしているときには坐禅ただそれだけしかなく、悟りも求めなければ、何かを得ることも考えないということではないかと思います。
そしてまた僧堂(そうどう)や坐禅堂で坐禅を行う際、臨済宗では互いに向かい合って坐るのに対して、曹洞宗では壁に向かって坐ります。つづく
グラコム2010年3月号掲載