日本の宗教のいろは

仏教について③

今回は、大きな三つの分類の二つめとして「密教(みっきょう)」と「顕教(けんきょう)」についてお話をいたします。
釈尊の入滅後、紀元後に体系化された仏教の教えの中では、「仏」というのは真理を教える者、もしくは真理そのものであると考えられていました。地球のみならずこの宇宙の真理はひとつで、その真理そのものである「仏」がいると考えられていました。その「仏」のことを顕教では「大毘盧舎那仏(だいびるしゃなぶつ)」密教では「大日如来(だいにちにょらい)」と呼んでいます。どちらも大きな太陽のような存在の仏という意味の同義語です。大日如来は真言宗の本尊としてご存じの方も多いのではないでしょうか。
さて、それぞれ考え方がどのように違うかというと、顕教では「大ビルシャナ仏」は姿なき仏であるとか沈黙の仏といわれ、その「仏」からは直接説法を聞くことができないと考えられています。つまり、宇宙に存在し、宇宙そのものであり、宇宙のことばでは人間には理解できないということから「大ビルシャナ仏」は宇宙の隅々までその教えを広めるためにそれぞれの「ほし」にあった形でたくさんの分身を派遣したのです。その一人として地球には「釈迦」を遣わせてその教えを広めたと考えられています。つまり、「大ビルシャナ仏」の分身を通じてその教えを知ると考えられているのが顕教の考え方です。
密教はというと「大日如来」から直接、教えを聞こうという考え方をしています。宇宙のことばをどのように聞くのかというと、本来人間にも聞くことができる能力は備わっているけれども、我々人間がもつ煩悩のせいで聞き取ることができないと考えられているのです。ですから我々人間は、その言葉を聞くためにしっかりとした修行を積み、煩悩を取り払い、こころを研ぎ澄ますために努力をすれば「大日如来」の教えを直接聞くことができるようになるというのが密教の考え方であります。つづく
グラコム2008年8月号掲載

  2008/07/25   gracom
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