日本の宗教のいろは

浄土真宗の教えについて①

今回からは、浄土真宗の教えについて簡単にお話をいたします。親鸞聖人が宗祖である浄土真宗は、阿弥陀仏の本願によって導かれ、生かされているという【絶対他力】の考えにもとづいています。
その【絶対他力】とは何なのでしょう。前回までの法然上人を宗祖とする浄土宗では「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」つまり、ただひたすら念仏を唱えること。という一つの行いをすることだけで、誰もが極楽浄土に往生できるとされました。このことは、それ以前の日本で進化した仏教が、様々な修行を必要とし、その修行や実践を成しえた人にしか成仏の道が開かれなかったことに対して、一般大衆に対して開かれた教えでありました。しかし、法然上人の教えも念仏を唱えることは自力で行わなくてはなりませんでした。
それに対し親鸞聖人は、「念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力を離れたるゆゑに…。」と(※1)歎異抄(たんにしょう)の第8章に書かれています。
つまり、念仏は、南無阿弥陀仏と唱える人にとって行でもなく善でもない。自力で行なうのではないので行ではなく、自力で行なう善根(よい報いを招くもとになる行為)でもないので善でもない。
念仏は唱える人の口から出てきてはいるが、阿弥陀仏のものであり、自分(自力)で唱えているのではないのである…。ということに表されるとおり、念仏さえも阿弥陀仏の本願(大きな慈悲の心)で行なわれているものだという考えなのです。阿弥陀とは梵語(ぼんご)で、その意味は【無量】ということです。
浄土真宗の教えは、その阿弥陀仏、すなわち無量の力をもった真理の仏が、どのような人間もその大きな慈悲の心で包み込み、極楽浄土に往生することができるといった教えなのです。
(※1)歎異抄(たんにしょう)親鸞聖人の門弟である唯円(ゆいえん)がまとめたといわれている書物です。
親鸞入滅後、師である親鸞の教えがその趣旨と異なって理解されている現状を歎き、師の教えを改めて明らかにしたいという願いで書かれたものです。 (筆者は、宗派の専門家とは言えませんので、詳しくは、菩堤寺のご住職にお聞きください。素晴らしい人ばかりですので、わかりやすく教えてくださると思います。)
グラコム2006年11月号掲載

  2006/10/23   gracom
≪ 浄土宗の教えについて②  |  浄土真宗の教えについて② ≫