日本の宗教のいろは

浄土宗の教えについて②

浄土宗の教えのつづきです。浄土宗の宗歌には「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむる人のこころにぞすむ」という一首があります。上の句は阿弥陀仏の本願の心を読み、下の句はその本願の力にすがって救われようとする衆生の信心を表しているといわれています。その詞書には「阿弥陀仏の光明は全世界をあまねく照らし、どんな人をも救い取る」とあり、大きな慈悲のみ心が歌われています。しかし、月が照り映えていても見ようとしない人には、阿弥陀仏の光明にも気がつかないでしょうし、逆に月のない夜でも心に月を思い浮かべて月光を宿すこともできると言えるでしょう。
さて、法然上人は『選択(せんちゃく)本願念仏集』の中で仏教全体を聖道門と浄土門という2つに大別しています。
聖道門とは、現実の人間社会において難しい修行をして迷いを立ち、聖(ひじり)の位に入って悟りを得ようというものであり、その説く道理は深遠ですが、私たち凡夫が理解するのはたいへん難しいと言えます。
一方、浄土門は阿弥陀仏の本願に誓われた念仏を唱えることによって極楽浄土に往生し、輪廻転生(りんねてんしょう)から抜け出ることを目的とするものです。
つまり、ただ南無阿弥陀仏を口に称えるだけで私たち凡夫の誰もが実践できる実践行であると言えます。そのことからも分かるとおり、法然上人は誰もが分け隔てなく救われる教えだと確信し、その教えを広めました。
また、法然上人は、ご遺訓である『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』の中でも「ただ往生極楽の為には、なむあみだぶつと申して疑いなく。
往生するぞと思い取りて申す他には、別の子細(しさい)候わず」とあり、最後には「ただ一向に念仏すべし」と締めくくっています。
(筆者は、宗派の専門家とは言えませんので、詳しくは、菩堤寺のご住職にお聞きください。素晴らしい人ばかりですので、わかりやすく教えてくださると思います。)
グラコム2006年10月号掲載

  2006/09/25   gracom
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