日本の宗教のいろは

神道の教えと歴史について④

前回は鎌倉時代までのお話をしましたが、その後の鎌倉時代の末期から南北朝の時代には仏教から独立した「伊勢神道(いせしんとう)」が確率されたのです。なぜなら、そのころは天皇を中心とした貴族の政治体制が崩壊し始めたときであり、貴族の体制側にいる人間にとっては天皇家を中心とする宗教観を確率することが重要なことであったのです。つまり「伊勢神道」は古代の天皇を中心とする体制の復活を目指し、仏教を優位な立場と考える本地垂迹(ほんじすいじゃく)説に反対の立場をとったのです。その後室町時代には、吉田兼倶(よしだかねもと)によって「唯一神道(ゆいいつしんとう)」が唱えられました。これは「仏教は万法の花実、儒教は万法の枝葉、神道は万法の根本」と唱え、仏教主体の本地垂迹に対して、神道がすべての根本であり、仏教はその根本から生まれた花実であるというものであります。この「唯一神道」は、道教・儒教・仏教の教えを取り入れ、真言密教の理論により、加持折祷も行ったことから庶民の間に広く浸透しました。
さて、江戸時代になると各家庭に祀る神棚が広く普及し始めました。これは、伊勢神宮の御師(おんし)が全国を回って神札(しんさつ)を配布し、その神札を祀るための神棚が必要になったことが一因です。また、同時期に江戸幕府は仏教を政治の統制下に組み込み、檀家制度により、民衆も所属する寺院を通じて幕府の支配に組み込まれていきました。そのような江戸幕府の宗教政策の中で幕末には、国学者の平田篤胤(ひらたあつたね)が「復古神道(ふっこしんとう)」を唱えました。これは、日本古来の信仰に基づいた神道であり、仏教等は外来宗教で、それを排除することで本当の神道の道が開けるというものでありました。つまり、平田篤胤の教えは国粋主義的なもので日本を世界の中心に置き、様々な解釈を行ったのです。
グラコム2005年11月号掲載

  2005/10/26   M I
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