日本の宗教のいろは

神道の教えと歴史について③

神道は、仏教が伝来したときにその存在が意識され始めました。それから様々な宗教のなかで体系されるようになっていきました。
仏教の伝来した五百年代後半には、当時の有力な氏族であった物部氏の「排仏(はいぶつ)派」と蘇我氏の「崇仏(すうぶつ)派」に分かれ政治的な争いが起きたようです。排仏派は日本の神々を大切にする立場で、崇仏派は仏教を国づくりの基盤として考えていました。
その後、最澄・空海の時代には仏教が本格的に隆盛しましたが、最澄(さいちょう)は比叡山を守護する日枝の神を大切にし、空海(くうかい)も高野山を開くにあたって、やはり土地の神を大切にしていました。最澄も空海も土地に根付く神々を仰ぐことで仏教の隆盛を願っていたようです。
つまり、その教えの精神の中には、神と仏の習合ということがあったようです。
平安時代になると古くから根付いていた神々の信仰と仏教が結びつき、本地垂迹(ほんじすいじゃく)という考え方が広まりました。本地(ほんじ)とは、「仏」のことで、それが人々を救うために仮の姿として現れたのが「神々」垂迹(すいじゃく)であるという考え方です。仏教が優位の考え方でありますが、当時は、日枝の神は釈迦如来(しゃかにょらい)伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)は大日如来、熊野の三社は阿弥陀、薬師、観音を本地として仮に現れたものと理解されました。
鎌倉時代になると神道の体系化が進み、天台宗系の「山王神道(さんのうしんとう)」と真言宗系の「両部神道(りょうぶしんとう)」が生まれました。それぞれ、天台宗の教理、真言密教にもとづく神道の流れであります。
つまり日本は、仏教が伝来して以来、その考えをしっかりと受け止めながらも、いままでの神々の信仰も叶うような社会を創り上げていったという、世界でも珍しく宗教に寛容な国であるといえるのではないでしょうか。
グラコム2005年10月号掲載

  2005/09/28   M I
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