前回は幕末までのお話でした。つづきをお話いたします。
さて、明治維新が起こり、政府の宗教政策の立案者には「復古神道」の信奉者が多かったこともあり、仏を主とし、神を従とする神仏習合は徹底的に批判され、神道の国教化政策が推進されました。宗教政策を担当する神祇官(じんぎかん)が再興し、同時に「神仏分離令」を発したのです。そのことにより、各地で寺院や寺社に祀られていた仏像や仏具などが打ち壊されるという激しい「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」が起こりました。
一方、明治政府は神社と別に、数多くの宗教活動を行う団体の中から神道を信奉する民衆宗教団体を教団として認めることによって、布教活動を許可し、国民の精神生活の柱となる部分を培おうとしました。この時に勅許(天皇からの直接の布教許可)を受けた、のちの「神道十三派」と言われる教団が「教派神道(きょうはしんとう)」と総称されるようになったのです。有名なものは、天理教(てんりきょう)・金光教(こんこうきょう)・黒住教(くろずみきょう)などが上げられます。そして、この「教派神道」は、教祖や経典を持つことが、それまでの神社神道と大きく異なる点でありました。
前述の流れを受けて明治時代以降、日本は天皇を中心とした天皇制の国家となり、それにより神道は国家の定める宗教、つまり「国家神道」となりました。これは、天皇家の祖先である「天照大神(あまてらすおおみかみ)」を祀る伊勢神宮を全国の神社の最高位と位置づけ、各地の神社の統廃合をすすめ、一村一社制をとっていったのです。また神宮は公務員とし、祭祀(さいし)のみを執り行い布教活動は禁止しました。
つまり、国家神道となったことで神道の宗教的な力は薄められてしまったと考えられます。
グラコム2005年12月号掲載