各宗派の宗祖についてのお話の四回目は「道元と瑩山」です。
曹洞宗は道元と瑩山の二人を宗祖とし、道元を高祖、瑩山を太祖といい、大本山は福井の永平寺と鶴見の總持寺(そうじじ)があります。
道元は正治二(一二〇〇)年、京都に生まれました。幼い頃は何不自由なく暮らしていましたが、十三歳の時に貴族の道を捨て、仏門に入りました。
ところが当時の比叡山に道元が求めるものはなく、山を降りて各地の寺で修行に励み、貞応二(一二二二)年、宋(中国)に渡り、天童山で如浄(にょじょう)と出会い、悟りを得て帰国しました。
帰国するとさっそく立教開宗宣言の書とも言える『普勧座禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著しその考えを広めました。
また、寛元元(一二四三)年には、越前(福井県)に移り、翌年栄平寺(建立当初は大仏寺)を開き、禅の教えを深めました。代表的な『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を著し、その教えは、近代・現代の思想にも影響を与えています。建長四(一二五二)年病気療養のため京都に戻りましたが、翌年五十四歳で寂しました。また、瑩山は道元から数えて四代目の弟子になります。
越前に生まれ、母は熱心な観音信仰の信者だったこともあり、幼くして永平寺に参じ、十三歳のときに道元の弟子の懐奘(えじょう)のもとで得度し、各地で修行を重ねたたくさんの優れた弟子を排出しました。そして、元享元(一三二一)年、能登(石川県)に總持寺を開きました。瑩山は外に向かって力強く教化を拡げていく能力に抜きん出ていたことから、曹洞宗は全国へと爆発的に広がっていきました。ここに永平寺と總持寺を二大本山とする曹洞宗の基礎ができたわけです。
その後、明治時代に總持寺は火災にあって消失してしまったことから、鶴見の現在地に移転し再建されました。
北見市で曹洞宗のお寺というと、高沢寺、高台寺、天恵寺、白麟寺。があります。(五十音順)
グラコム2005年5月号掲載