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宗教のいろはタイトル

グラコム2015年2月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物M

 今回は、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)についてお話をします。
一休は一三九四年、後小松天皇の(※一)「落胤(らくいん)」として生まれたという説が有力です。また皆様は、一休というと「一休さん」で有名な「とんちの一休」とか、晩年に盲目の美女「森侍者(しんじしゃ)」と恋愛した風狂の破戒僧とかとしてご存知の方が多いのではないでしょうか。
さて、一休の幼名は千菊丸。六歳で京都の臨済宗安国寺に入門し、受戒して「周建」と名付けられました。その後、十七歳で西金寺の謙翁に師事し、「宗純」と改名。その師事した謙翁の死後、大徳寺の華叟(かそう)の弟子となり、その時に出された公案に対して「(※二)有漏地(うろじ)より、無漏地(むろじ)に帰る一休み 雨ふればふれ 風ふけばふけ」と答えたことから「一休」の道号を得たと言われています。
青年期の一休は、戒律を守り、貧苦に堪える時代を過ごし、二十七歳で悟りを得たと言われています。しかし、その間の臨済宗の僧侶たちの状況は、戒律が乱れ、俗世界と変わらない状態であったと言われ、そんな状況に嫌気がさした一休は、寺にとどまることなく一般衆生に禅の教えを説いて歩きました。そして、戒律を破ることをいとわず、詩も詠えば、画もたしなみ、庶民にはたいへんな人気を得た反面、禅僧たちからは煙たがられる存在であったようです。ただ、浄土真宗の中興の祖である「蓮如(れんにょ)」とは親鸞聖人の二百回忌で出会い、お互いに信頼厚く、親交が深かったと言われています。
晩年の一休は、庶民に大変な信頼を得ていたことを買われ、重要な職を次々と任されました。応仁の乱で荒れ果てた京都の臨済宗大徳寺派の大本山である大徳寺の再興も任されましたが、住持として住むことはせず、酬恩庵(しゅうおんあん)に住み続けました。 そして、一四八一年、その酬恩庵にて八十八歳で入寂しました。
※一 「落胤」…身分の高い男が正妻以外に産ませた子。おとしだね。とも言われる。
※二 有漏地とは煩悩の世界、つまり生きている世界、また無漏地とは涅槃(ねはん)の世界のことをいう。つづく

グラコム2015年4月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物N

 今回は、蓮如(れんにょ)についてお話をします。
蓮如は、浄土真宗第七世「存如(ぞんにょ)」の長男として応永二十二年(一四一五年)に生まれました。幼名は布袋丸。その後、永享三年(一四三一年)、天台宗門跡寺院の青蓮院において得度。 当時の本願寺は勢いがなく経済的に不遇で荒寺同然でした。しかし、長禄元年(一四五七年)に蓮如が門主となってからは、親鸞聖人の教えをわかりやすく手紙の形式で綴った「御文(おふみ)」を使ったり「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」などの名号を用いたりして信者に親鸞の教えを説いていきました。そのことに加え、蓮如の組織化の素晴らしい手腕で本願寺の時勢は一転し、浄土真宗内の最大派閥になっていきました。そのことから蓮如は「浄土真宗中興の祖」と言われています。
しかし、蓮如が教えを全国に広め、多くの信者ができたことで、比叡山を刺激し、本願寺は弾圧されることになりました。ついには、比叡山の衆徒が本願寺を破却するという事態にまで発展しました。それほど蓮如の影響力が大きく、多くの信者ができたことがわかると思います。蓮如は本願寺を逃れ、各地を転々としたのち、吉崎(越前国)へと移住されました。吉崎で精力的に活動をされたお蔭で「蓮如ブーム」とも言われるほど民衆に親鸞の教えが浸透していきました。
その後、蓮如は摂津・河内・和泉で布教活動を続け、ついに文明十三年(一四八一年)、京都の山科に御影堂・阿弥陀堂を建て、本願寺の再興を果たしました。山科本願寺の建立以降、真宗の他派が相次いで多くの門徒と共に本願寺に帰参し、本願寺は全国的な大教団へと発展しました。蓮如は延徳元年(一四八九年)ご隠居されましたが、晩年も教化の手を休められませんでした。明応八年(一四九九年)に多くの弟子や門徒たちに見守られて八十五年の生涯を終えられました。つづく

グラコム2015年6月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物O

 今回は、隠元(いんげん)についてお話をします。
隠元は、隠元隆K(いんげんりゅうき)といい、一五九二年に中国福建省で生まれました。中国の臨済宗を代表する高僧の一人で、四十六歳の時に中国の黄檗山(おうばくざん)萬福寺(まんぷくじ)の住職となった人物です。その後、日本からの度重なる招請により六十三歳の時に来日。しかし、日本に根付いていた臨済宗は、中国のそれとは大きく異なっていたため、隠元の禅は異なるものとみなされ、臨済禅宗黄檗派などと呼ばれていました。隠元は、明の時代の臨済宗の高僧であったため、その禅を積極的に伝えました。「念仏禅」という座禅による修行や、「弘戒法儀(ぐかいほうぎ)」という受戒の指導書。「黄檗清規(おうばくしんぎ)」という禅の寺院での規則集などを伝え、当時停滞をしていた禅宗の僧侶にたいへん大きな影響を与え、自己改革を促すこととなりました。
隠元は三年の予定で来日しましたが、多くの方々に引き止められ、当時の将軍である徳川家綱に拝謁した後、山城国宇治に土地を賜り、寺院を創設。その寺院は、自身が住職であった明の寺院の山号寺号をそのままにした、黄檗山萬福寺と名付けられました。その後、八十二歳で寂するまで日本にとどまり、宗教のみならず文化面でも多くの影響を与えたと言われています。建立された萬福寺は後に改宗されて黄檗宗として独立した後の大本山となりましたが、建築や仏像などは明時代後期の様式で造られ、儀式作法から精進料理に至るまで日本の多くの寺院とは異なる様式をしています。
また、隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹なども隠元が中国からもたらしたものと言われています。そして、現在もお茶と言えば一般的には煎茶を指すことが多いように、日本人には欠かせない飲み物である煎茶の風習もです。「煎茶道」の開祖ともいわれ、全日本煎茶道連盟の事務局は萬福寺内に置かれ、同連盟の会長は同寺院の管長が兼務することが慣わしになっています。 つづく

グラコム2015年8月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物P

 今回は、白隠(はくいん)についてお話をします。
白隠は、白隠慧鶴(はくいんえかく)といい、一六八五年に駿河国原宿(現在の沼津市原地区)で生まれました。五百年に一人の名僧と言われ「駿河には過ぎたるものが二つあり、一つは富士のお山に原の白隠」とまで謳われました。また、臨済宗中興の祖と言われている江戸時代中期の禅僧です。
白隠は、十五歳で松陰寺(しょういんじ)に入門して出家しました。その後、様々な場所で修行を重ねましたが、特に大きな影響をもたらしたのは、道鏡慧端(どうきょうえたん)という宋との出会いでした。道鏡は、白隠の高慢さやうぬぼれを見抜き、厳しく指導を行い、結果として白隠は、本当の悟りを得られたのだとも言われています。そのような白隠ですが、修行中に「禅病」にかかったと言われています。禅病とは、自律神経失調症のようなもので、修行をこれ以上続けることができなくなり、京都で白幽子(はくゆうし)という仙人に「内観法」を学んだことで完治したと言われています。そのことについて、後年「夜船閑話(やせんかんわ)」という著書を残しています。
また白隠は、臨済宗を立て直すための修行の形を整え、学ぶべき公案を分類(※)し、体系づくりを進めました。公案とは修行の坐禅時に行う禅の問答です。その上、人々に教えを説くときには常にわかりやすい言葉遣いに努め、「坐禅和讃」を著して、坐禅の目的や本質をわかりやすく伝えました。そのことで多くの信者が集まり、禅(臨済宗)が復興したと言われています。
白隠は、禅を普及させる一つの手法として、その教えを表した書画を数多く描き、個性豊かでユーモアに満ちた独自の世界を作り出しました。多くの功績を遺した白隠でしたが、一七六八年、八十四歳にて、松陰寺で示寂されました。
※…公案を法身(ほっしん)(代表的な公案として「隻手音声(せきしゅおんじょう)」等があります)、機関(きかん)、言詮(ごんせん)、難透(なんしゅう)、向上(こうじょう)などに分類し、段階を重ねて公案を説いていくことで悟りに至ることを体系化しました。つづく

グラコム2015年10月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物Q

 今回は、良寛(りょうかん)についてお話をします。
良寛は、江戸時代後期の曹洞宗の僧侶であり、歌人、書家としても有名です。生まれは、一七五八年で国は越後。出雲崎にて名主を務める家の長男でした。幼いころより何不自由なく育ち、学問にも親しんでいましたが、十八歳で出雲崎尼瀬の曹洞宗の寺院、光照寺に入り出家。その後、修行を重ね、二十二歳の時に備中国玉島の円通寺に移り、国仙和尚(こくせんおしょう)を師事し、修行に励みました。後に(※)大愚(だいぐ)という道号を賜っています。 国仙和尚が示寂した後は、諸国をめぐり、一つに定住せず空庵を転々として、修行しながら、仏法を庶民にわかりやすい言葉で説いて歩きました。そして三十代後半で越後に戻り、国上山(くがみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵に定住されました。
五合庵では、托鉢で生計を立て、托鉢で得た食料やお金が余れば惜しげもなく困っている方々に分け与え、誰とでも心温かく接し、あばら家の住まいには必要最小限の物しかなかったといいます。また良寛は、漢詩、和歌なども巧みで、書家としても有名でありました。老若男女、誰からも慕われて愛されていたといい、清貧でも心豊かな生活を送っていたと言われています。現在に残された多くの詩、歌、書の大部分は、定住していた五合庵やその後に移り住んだ乙子神社草庵の頃の作品です。
良寛は五合庵の後、六十歳前後で乙子神社の草庵に、また七十歳で島崎村の木村家邸内に住まいを移しました。つまり、生涯寺を持つことはありませんでした。木村家邸に移った頃に貞心尼(ていしんに)という尼僧が和歌を習うために弟子入り。貞心尼の自筆歌集である「蓮の露(はちすのつゆ)」の中には、良寛が晩年に貞心尼との間で交わされた和歌を読むことができます。その後、良寛は七十四歳で示寂されました。 ※…大愚良寛として今も使われている大愚の意味合いは、おおいに正直であるとか愚直であるとかの意味だと思います。国仙和尚から賜ったとの説が一般的ではありますが、諸説あるようです。
残念ですが、今回で「宗教のいろは」は最終回といたします。長い間ご愛読いただきました皆様には、心よりお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。