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宗教のいろはタイトル

グラコム2014年2月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物G

 今回は法然(ほうねん)についてお話をします。
法然は長承二(一一三三)年、美作(みまさか)国(岡山県)に生まれ、幼名を勢至丸(せいしまる)といいました。九歳のとき、父が夜討ちにあって亡くなる前に言い残した言葉「全ての人が救われる仏の道を求めて欲しい。」で出家。十五歳(一説には十三歳)のときに比叡山にのぼり、天台教学を学び修行を重ねましたが、求めるものが得られずに、黒谷の叡空(えいくう)に教えを求めました。
この時から法然房源空(ほうねんぼうげんくう)と名乗り、勉学に励む法然は、いつしか「智慧第一の法然房」と呼ばれ、5048巻にものぼる「一切経」を五度も読破したと言われています。 その後二十数年の歳月を経て、善導(ぜんどう)大師の「観経の疏(かんぎょうのしょ)」の中から<現代訳…常に南無阿弥陀仏とお名号を称え離れないのが仏道修行する者の勤めだ。弥陀の本願に叶う道だから>の文を発見され、ついに、法然が求め続けていたものにたどり着いたのです。すなわち”煩悩は煩悩のままに、悩めるものは悩めるままに念仏すれば、仏はあまねく人々を救うと誓われているのだからそれだけでよい。「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」こそ身分の上下、貧富の差、老若男女などの区別をこえて、すべての人が救われる道だ“と。
かくして法然は、比叡山をおりて、吉水草庵(よしみずそうあん)(安養寺)を本拠として、誰へだてなく布教伝道活動をしました。そのため法然は民衆仏教ともいわれる鎌倉仏教の先駆者となりました。しかし、専修念仏があまりにも広がったため、比叡山からの糾弾が激しく、法然は七十五歳にして讃岐に流罪とされてしまいました。その後、赦免されて京都に戻りましたが、建暦二(一二一二)年、八十歳で入寂しました。
そして、法然が称名念仏の大切さを説いて著した「選択(せんちゃく)本願念仏集」、また、亡くなる前に念仏の肝要を記し「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」と記した「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」は現在でも浄土宗の大切な教えです。つづく

グラコム2014年4月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物H

 今回は親鸞(しんらん)についてお話をします。
親鸞は、一一七三(承安一)年、京都・日野の里にて、貴族の家の生まれであるといわれています。九歳で青蓮院(しょうれんいん)の慈円(じえん)のもとで出家し、比叡山で二九歳までの二十年間修行したと伝えられていますが、生まれも育ちも本当に確かなものはありません。
比叡山には親鸞が求めるものはなく、山を降り、京都六角堂に百日間の参籠(さんろう)をしました。その終わりのころに、夢の中で、聖徳太子のお言葉を受け、東山吉水で専修念仏(せんじゅねんぶつ)を広めていた法然上人のもとに赴きました。その後、比叡山からの激しい糾弾に会い、法然上人が讃岐に流罪となるのと同時に、親鸞も越後(新潟)に流されたのでした。そのころ親鸞は、「愚禿(ぐとく)」と名乗り、悲僧非俗(ひそうひぞく)の立場に立ちました。これは、国家の支配下に置かれているような既成の僧侶でもなく、煩悩に振り回された生活をする俗人でもないという意味。つまり、法然が広めていた専修念仏において、出家・在家の区別なく、阿弥陀如来の前ではみな平等であるという意味も込められていると考えられます。4年後に流罪が解かれた後には、京都ではなく関東へ向かい、常陸(ひたち)(茨城)を中心に積極的に布教活動をしました。そのころ親鸞は、『教行信証(きょうぎょうしんきょう)』を著しています。全部で六巻。絶対他力の念仏往生の信仰を確立するためのものであり、阿弥陀如来の本願による衆生救済の普遍性を説いています。また同時に、親鸞は念仏の恩恵に浴していない人々へも真剣に布教しました。そのように積極的にどんな人にも布教活動をしてきた親鸞ですが、念仏者が増えるにつれ、様々な妨害や弾圧があり、関東の地を離れなければなりませんでした。その後、親鸞は京都に移り、亡くなるまでの間は精力的に書物を書き、関東の門弟たちの求めに応じて、手紙で教えを説き続けました。そして九十歳の一二六三(弘長二)年十一月二十八日、末娘の覚信尼(かくしんに)にみとられて生涯を終えられました。つづく

グラコム2014年6月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物I

 今回は一遍(いっぺん)についてお話をします。
一遍は、一二三九(延応元)年、伊予国(現在の愛媛県)の豪族の第二子として生まました。十歳で出家し、その後大宰府に移って、法然の門下、証空(しょうくう)の弟子にあたる聖達(しょうたつ)の下で浄土宗西山流を学びました。
その後、各地で修業したあと熊野本宮大社で阿弥陀如来の「※一」垂迹身(すいじゃくしん)であるとされる熊野権現から「民衆が浄土に往生するために、信、不信に関わらず、善悪を問わず、浄、不浄を問わず、六字名号を記した念仏札を配るように」との夢告を受けたと言われています。その後、一遍はひとつの寺院にとどまることなく、五十一歳で亡くなるまで、十六年にもわたり「※二」念仏賦算(ねんぶつふさん)を続けたということです。その札には「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」と書かれています。今でも、時宗の総本山、神奈川県藤沢市にある遊行寺では賦算が続けられています。
また、一遍は民衆への教えを広めるために「踊り念仏」を取り入れました。これは、尊敬していた阿弥陀聖(ひじり)と呼ばれた「空也(くうや)」にならったものと言われ、民衆がありのままで救われることを表現して踊ったもので、民衆の間におおいに広まったと言われています。現在、各地で行われている盆踊りは、これを起源とし、盂蘭盆(うらぼん)の行事と結びついて続いていると言われています。
一遍は時宗の宗祖と言われていますが、一遍には開宗の意志はなかったと言われ、一遍の死後に他阿(たあ)が自然解散していた「※三」時衆(じしゅう)をまとめて、時宗を起こしたと言われています。そして、時宗の教えを簡単に表すと、阿弥陀仏を信じる、信じないに関わらず、念仏さえ唱えれば往生できると説いたもの。阿弥陀如来の本願力は絶対であることから、信じない者も救われるという考え方です。
※一…仮の姿で現れた神のこと。
※二…南無阿弥陀仏と書かれた六字名号を配ること。
※三…時宗の成員も教団も寛永十年まではこの文字だったと言われています。つづく

グラコム2014年8月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物J

 今回は一遍(いっぺん)についてお話をします。
 今回は栄西(えいさい)についてお話をします。
栄西は、一一四一(永治元)年、備中吉備津(現在の岡山市)の神宮の家で生まれました。十一歳で安養寺の静心和尚に師事、その後十三歳で比叡山にのぼり、おもに天台教学を学んだと言われています。当時は、比叡山でも世俗でも争いが絶えなく、比叡山を立て直すべく宋に渡り「天台章疏(てんだいしょうそ)(※簡単に言えば天台宗の仏教書のこと)」六十巻を持ち帰りました。また、宋でお茶を飲んで疲労回復したことをきっかけとして、日本にお茶をもたらすことにもなりました。のちに、お茶の効用を説いた「喫茶養生記」を著しています。「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」と記され、お茶は以前から日本にも伝わっていましたが、一部の上流階級だけではなく、一般に広く広めたことで、栄西は茶祖としても有名です。
さて、宋から戻った栄西は、精力的な活動をしていましたが、最澄が開宗した当時の天台教学を再興するためには、釈尊の生誕地であるインドへ渡る必要があると考え、再び宋へ渡りました。しかし、インドへは行くことは叶わず、替わりに、臨済宗黄龍派(りんざいしゅうおうりゅうは)の虚庵懐敞(きあんえしょう)と出会い、五年に渡り師の下で禅の修行に励み、悟りを得たという印可(いんか「お墨付き」)を受けて帰国しました。つまり、禅によって天台教学の再興を図ろうと考えたのです。九州に次々と禅宗寺院を建立し、京都へ広げる努力をしましたが、比叡山からの強い反発にあい、禅宗停止の命令が下りました。そのとき、「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」を著し、自分が持ち込んだ禅は、最澄が教えた「円・密・禅・戒」の四種相承(ししゅそうじょう)と同じものであり、国を護るためにも有用であると説きましたが、京都における布教活動は困難を極め、教化を鎌倉に移しました。公家社会から武家社会への移行期にあり、鎌倉幕府から支援をもらうことが出来た栄西は、北条政子が建立した寿福寺にて初代住職となり、その後、京都においても、将軍である源頼家により、建仁寺が栄西を開山として建立されました。建立当時の建仁寺は、三宗兼学(さんしゅうけんがく)といい、天台、密教、禅の道場として栄えました。建仁寺は様々な困難がありましたが、現在、臨済宗建仁寺派の大本山となっています。つづく

グラコム2014年10月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物K

 今回は道元(どうげん)についてお話をします。
道元は、瑩山(けいざん)とともに曹洞宗の宗祖といわれ、道元を高祖、瑩山を太祖といい、合わせて両祖と称しています。
さて、道元は、正治二(一二〇〇)年、貴族の子として京都に生まれたと言われています。幼い頃は何不自由なく暮らしていましたが、十三歳の時に貴族の道を捨て、仏門に入りました。ところが当時の比叡山に道元が求めるものはなく、山を降りて各地の寺で修行に励み、貞応二(一二二二)年には、宋(中国)に渡り、天童山で如浄(にょじょう)と出会い、曹洞禅を学び、悟りを得て帰国しました。
帰国するとさっそく立教開宗宣言の書とも言える『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著しました。その内容はあまねく座禅を勧める内容であり、道元は京都の建仁寺、深草と移り、門弟の教育に力を注ぎながら、その考えを広めていきました。ただ、当時の比叡山に道元の教えは受け入れてもらえずに多くの弾圧を受けたと言われています。
その後、寛元元(一二四三)年に、越前(福井県)に移り、翌年永平寺(建立当初は大仏寺)を開き、禅の教えを深めていきました。禅の教えを論理的に表現した代表的な著書『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』により、近代・現代の思想にも道元は大きな影響を与えています。道元の教えは「只管打坐(しかんたざ)」といい、ひたすら座禅に打ち込むもので、「黙照禅(もくしょうぜん)」といわれます。座禅するときは何も考えず黙々と座禅するのみで、悟りすら求めないというものでありました。これは、座禅を行う時の心得でもあり、また日常生活のすべてが禅の心に裏付けられたものでなければならないということでもあったと言われています。
道元は建長四(一二五二)年、病気療養のため京都に戻りましたが、翌年、五十四歳で寂されました。つづく

グラコム2014年12月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物L

 今回は日蓮(にちれん)についてお話をします。
日蓮は、承久四(一二二二)年、安房国東条郷(現在の千葉県安房郡)に漁師の子として生まれました。十二歳で天台宗清澄寺(せいちょうじ)に入り修行を重ね、十六歳で師である道善房(どうぜんぼう)のもとで出家。是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)を名乗り、その後は京都をはじめとして各地において遊学され、『法華経』こそが釈尊の真実の教えであり、拠りどころとすべき唯一の経典であると確信しました。建長五(一二五三)年四月二十八日、清澄寺のある清澄山の旭が森において「南無妙法蓮華経」を初めて唱えて立教開宗の宣言をし、同時に名前を日蓮と改名しました。日蓮が三十二歳のときです。現在、日蓮聖人は日蓮宗の宗祖であり、総本山は山梨県にある身延山久遠寺(くおんじ)です。
その後、日蓮は『法華経』だけが唯一の教えであると説き、他宗を強烈に批判したために東条の地を追われ、鎌倉の松葉谷(まつばがやつ)に草庵を構えました。このころから世の中は天災、飢餓、疫病、戦乱等が相次ぎ、まさに末法の世の様相を呈していたことを憂いた日蓮は、文応元(一二六〇)年「立正安国論(りっしようあんこくろん)」をまとめ、前執権であった北條時頼に上呈しましたが決して受け入れることはありませんでした。
その後も日蓮は、他宗を強烈に批判しながらの布教活動を行い、(※)数々の法難を受けましたが力強く活動を行ないました。晩年の九年間は身延山に移り、末法の世こそ法華経が広まるべき時であることを記した「撰時抄(せんじしょう)」や亡き師の道善房を偲んで報恩回向についての心情を述べた「報恩抄(ほうおんしょう)」などを著し、門弟を指導することで過ごしました。弘安五(一二八二)年、病のため身延山をおり常陸国に向かいましたが、途中病が重くなり、同年一○月一三日、武蔵国池上(現在の東京都大田区)において、六十一歳で没しました。
※松葉谷の焼き討ち、伊豆流罪、小松原の襲撃、龍の口での斬首を免れての佐渡遠流が四大法難として知られています。つづく