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宗教のいろはタイトル

グラコム2013年1月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物A

 今回は行基(ぎょうき)についてお話をします。
聖徳太子が仏教の興隆に力を注いだ結果、仏教思想により国家を護持する国家建設が本格化しました。朝廷は大宝律令の一つに、僧侶を統制する「僧尼令(そうにりょう)」を出し、僧侶になるには天皇の許可が必要になったのです。そして僧侶は、鎮護国家のための仕事を任されるようになりました。反面、許可を得ない私度僧(しどそう)も活躍して、民衆の間に仏教信仰を浸透させていきました。その私度僧の中でも、行基(ぎょうき)という僧は、忘れてはならない存在であると思っています。
行基は、法相宗(ほっそうしゅう)の開祖である道昭(どうしょう)のもとで出家し、その後は僧院にとどまり学問に専念することではなく、民衆への布教活動を精力的に行う道を選びました。そして、私度僧として貧民救済や土木事業などにめざましい活動を行い、民衆から大いなる尊崇を集めていたと言われています。しかし、国家で統制されていない僧の活動ですから、その活動は度々弾圧されましたが、行基が行っていた社会基盤整備や民衆からの人気が無視できないなどの理由で国家はそれを利用するようになったようです。特に、「三世一身の法(懇田の奨励のために期限を区切って土地の所有を許可したこと)」の施行後は、行基を土木事業の責任者に任命したり、東大寺大仏建立の責任者を任命したりしました。その後、功績を認められ、僧侶の位で一番上位に位置し、日本で初となる「大僧正(だいそうじょう)」の位が朝廷より贈られました。
行基は、民衆のための布施屋をはじめとする多岐にわたる社会事業や多くの寺院の建立など、民衆の救済を大きな目的として、自身を犠牲にしてまでも民衆に尽くした生涯は、菩薩(ぼさつ)とも言われ、のちに「利他行(りたぎょう)」(他者を救済しようとする行いのこと)に努める僧の模範にされたと言われています。つづく

グラコム2013年3月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物B

 今回は鑑真(がんじん)についてお話をします。
鑑真は、日本の南都六宗の一つである律宗の開祖。生まれは唐の陽州。十四歳で智満について得度し、陽州の大雲寺で修行を積んだ。その後、長安で律宗・天台宗を学び、陽州の大明寺にもどり住職として研鑚を積み、名僧としての評価を受けていました。
その頃日本は奈良時代。僧侶には免税の特権があり、税を逃れるために正式な授戒を経ずに僧尼として振る舞う者が増えていたそうです。そのころから戒律の重要性が大きく認識され、また正式な授戒制度が整備されていなかったことから、唐にその僧を求めて遣唐使の一員として栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)などが僧を探すために唐へ渡った。そこで鑑真に会い、弟子を日本に送ってもらえるように依頼したが、本人がその意に答え来日することを決意しました。
しかし、鑑真の来日には、僧の密告、弟子の妨害、許可が出ない等の問題や、出航しても違う地に漂着、栄叡の死、自身の失明などの多くの困難があったといいます。それを乗り越えて六度目で何とか日本に来日。その翌年、上京して聖武上皇の歓待を受けました。
その後、当時の孝謙天皇の詔により、戒壇(戒律を授かるための場所)の設立と授戒についての一任をもらい、天下の三戒壇と呼ばれる東大寺、大宰府の観世音寺、栃木県の薬師寺に戒壇を築いた。上京した年に上皇など数百人に授戒し、当時の仏教界の戒律は守られるようになりました。
その後、新田部親王の旧宅地後を朝廷から譲り受け、唐招提寺を創建したが、その四年後に亡くなった。奈良の唐招提寺は現在、律宗の大本山であると共に世界遺産として登録されている。御影堂には、国宝である鑑真の彫像があり、現存する最古の肖像彫刻であるとされています。
また鑑真は、戒律だけではなく彫刻や薬草の造詣が深く、これらの知識も日本に伝えられました。つづく

グラコム2013年4月号掲載

花まつりについて

 北見もすっかり春が近づき、ゴールデンウィークの季節になりました。仏教行事としては「花まつり」の季節であります。皆様も一度は見たり聞いたりしたことがあると思いますが、この「花まつり」についてお話をいたします。
毎年、四月八日がお釈迦様の誕生日として全国各地で、地域の仏教会等が中心となってそのお祝いをしています。そのことを「花まつり」と呼んでいます。たくさんの花で彩られた小さいお堂「花御堂(はなみどう)」の中にお釈迦様の生まれたばかりのお姿を安置して甘茶を注いでおまいりすることからそのように呼ばれているのです。花御堂は生まれた場所、そして甘茶をかけるのは、生まれたときに天を舞う竜からお釈迦様に清らかな甘い水(香水)が注がれたという伝説から由来しているようです。
この花御堂の中にまつられているお釈迦様は、立ち上がった姿で右手は天を、左手は地を指していて、お釈迦様が生まれてすぐに「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と言われた姿を現しているのです。この意味は、「天を見ても地を見ても自分より偉いひとはいない」とい傲慢(ごうまん)な考えではなくて、世の中にはたくさんの人たちがおられますが、一人一人がとても尊い存在で上を見ても下を見てもその人に代わる人はいないというような意味であると思います。また、自分自身が大切であることと同様にいつでもどこでも生きるものすべてに対して同様の心を持つことの大切さも教えてくれていると思います。
また、お釈迦様の母であるマーヤ夫人は白い象が体内に入る夢を見てお釈迦様を身ごもられたと伝えられ、お釈迦様はマーヤ夫人が出産のため里帰りの途中に立ち寄ったインドのルンビニーの花園でお釈迦様は生まれたと言われています。そのことから大きな白い象が「花まつり」のシンボルの一つであり、かわいらしい子どもたちがそれを引っ張って歩く「白象行進」も欠かせない行事になっているところが多く見られます。つづく

グラコム2013年5月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物C

 今回は最澄(さいちょう)についてお話をします。
最澄は、日本の天台宗の開祖として有名。十二歳で近江の大安寺で行表(ぎょうひょう)のもとで出家。十四歳で得度し、修行を続けていたが、満足することなく比叡山にこもり、法華経や金光明経、鑑真が日本にもたらした天台宗の経典を研究。その後、遣唐使に同行する還学生(げんがくしょう)(短期の留学生)に選ばれて入唐。唐では短期間でありながら、天台教学、密教や禅そして(※一)大乗戒などの教えを多くの師から受けました。これを「円・密・禅・戒」の四種相承(ししゅそうじょう)と言い、このことから日本の天台宗は中国天台宗と異なり、総合仏教的な性格を持つことになったと言われています。
さて、最澄は「(※二)法華経(ほけきょう)」の一乗思想をしっかりと自身のものとするために入唐したとも言われています。この一乗思想とは「すべての人が成仏する可能性を秘め、三つの乗の考え方はそれぞれ独立した仏への道のようであるが、根本は一つである」という思想です。(乗とは仏のところに行くための乗り物という意)その三つの乗とは、利他の精神として、他人の救済を第一とする菩薩(ぼさつ)、自利の精神として自身の問題である、声聞(しょうもん)(仏の教えに導かれて得る悟り)・縁覚(えんがく)(自身で努力して得る悟り)があります。
この考えを中心とした最澄は、今まであった(※三)具足戒(ぐそくかい)を原則とした戒壇ではなく、大乗戒壇を設立しようと朝廷への働きかけに奔走しました。しかし、当時の南都六宗の側はこのことに大いに反発し、最澄の生前には実現しませんでしたが、、亡くなった七日後、延暦寺に設立が認められました。
※一、三…具足戒とは出家し、二百五十もの多くの戒を守ることで僧としての資格を得た。大乗戒は出家、在家を問わず、ある一定の戒を守ることで得られた。
※二…法華経…正式には妙法蓮華経といい、大乗と上座部(小乗)仏教の対立を超えたところに真理がある、釈尊が永遠の存在であることなどを説いた経典。つづく

グラコム2013年8月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物D

 今回は空海(くうかい)についてお話をします。
空海は、讃岐国に生まれ、様々な学問を学んだ後、仏門を志しました。二十四歳の時に著し、その後改稿された『三教指帰(さんごうしいき)』は、儒教・仏教・道教の優劣を論じ、仏教が最も優れているとしています。
その後、留学僧として唐に渡り、当時の都・長安の青龍寺の恵果(けいか)に学び、阿闍梨(あじゃり)という指導者の(※一)灌頂(かんじょう)を受け、秘法を授かり、密教のすべてを学びました。このときに授けられた灌頂が「遍照金剛(へんじょうこんごう)」(大日如来の蜜号)です。本来二十年にわたる留学期間を二年に短縮し、八〇六年に帰国しました。
その後入京し、中国密教を広め、高雄山寺や乙訓寺で活動し、さらに独自の考え方を進めて真言宗を開きました。八一六年には高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を開基、八二三年には東寺(とうじ)を嵯峨天皇より賜り、真言密教の道場として多くの弟子を育てた。また、「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」や要約した「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」などで真言密教の体系を述べるなど、多くの著作も執筆している。
また空海は、仏教のみならず当時の唐の新しい文化も持ち帰った。のちに弟子の真済がまとめた「性霊集(しょうりょうしゅう)」からもわかる通り、漢詩文にもすぐれ、書道家としても知られていた。また、社会事業にも貢献し、水害の多かった讃岐の満濃池(まんのういけ)を改修したり、日本最初の大学と言われる「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を創設して一般の教育にも努めたりした。
空海はその後も幅広い活動を展開し、八三五年、六十二歳で高野山に寂したが、のちに醍醐天皇から弘法大師という諡号(しごう)を下賜され、今日まで広く宗派を超えてさまざまな形で信仰を集めています。
※一…灌頂とは種々の戒律や資格を授けて、正当な継承者となるための儀式。つづく

グラコム2013年10月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物E

 今回は源信(げんしん)についてお話をします。
源信は、大和国(現在の奈良県)生まれ、父を早くに亡くし、母親の意向もあって、比叡山に入山し、比叡山の中興の祖と呼ばれる良源のもとで天台宗を学んだ。恵心僧都(えしんそうず)とも呼ばれています。
源信は、若くして村上天皇から法華八講(※一)の講師の一人に選ばれ、褒美の品を下賜された。それを母に喜んでもらおうと報告するが、母からは「世俗の名誉を喜ぶのではなく、真に仏の教えを人々に伝える尊い僧侶になって欲しい。」と諭されたと言われています。和歌には以下のように残されています。
『後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ』
このことで、源信は大いに反省し、延暦寺横川(よかわ)にある恵心院に隠棲(いんせい)し、修行を続けた。そこで『往生要集(おうじょうようしゅう)』をまとめ上げました。極楽浄土に関する重要な文章を集め、問答形式で書き記した書であり、当時の人々に多大な影響を与えた。極楽浄土に往生するためには、一心に念仏を唱える以外に方法はないと説き、浄土教の礎を気付いたとも言われている。後世の法然や親鸞にも大きく影響を与えた書として有名です。
六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人)がどのようなものか、から始まり、極楽浄土や大切な行いとは何かを説いている。また、念仏については、修行の方法やその功徳、特定の念仏、その包容性などを説き、何よりも念仏が大切であるということを3巻10章から説明した書です。
源信は七十代半ばでこの世を去ったが、自身が説いたように、臨終の際は阿弥陀如来像の手に結んだ糸を自身の手にし、合掌しながら入滅したと伝えられています。
※一…法華八講とは法華経8巻を1巻ずつ講説し讃える法会。つづく

グラコム2013年12月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物F

 今回は良忍(りょうにん)についてお話をします。
良忍は、十二歳で比叡山にのぼり、良賀僧都に師事して得度。光乗房良仁と名乗り、京都大原へ隠棲した後に良忍と改名。比叡山では、天台はもとより密教や戒律を学びました。二十三歳で京都大原に隠棲。熱心な念仏者であり、法華経の修行僧でした。
四十六歳の時、念仏を称えている最中に阿弥陀仏から、幸せの世界に至る方法として融通念仏の法門を授与されました。その授与された偈文(げぶん)は「一人一切人 一切人一人」つまり、一人の念仏は万人におよび、万人の念仏が一人に及ぶということで、阿弥陀仏の救済力が融通するというものでありました。それを「大念仏」とも言って、融通念仏宗の教えの要になっています。
また、阿弥陀仏は、法門を告げ終わったあとに白い絹を良忍に授けたと言われています。中央に阿弥陀如来が立ち、その周囲を十体の菩薩が取り囲んでいるお姿で、現在、融通念仏宗のご本尊となっている「十一尊天得如来(じゅういちそんてんとくにょらい)」です。その後、良忍は、市中に出て念仏勧進を始め、鳥羽上皇も宮中に良忍を招いて、皇后や百官に融通念仏会を修し、自ら日課百遍の念仏を誓約されたそうです。
良忍は「声明(しょうみょう)」についても有名です。 声明とはインド五明(ごみょう)の一つで音声、言語を研究する学問で、転じて経文に曲節を付けて唱える梵唄(ぼんばい)を意味するようになりました。声明は古くにインドから中国に伝わり、最澄(さいちょう)が入唐して日本に梵唄を伝えたのが天台声明の始まりといわれています。その後、円仁が中国天台山を模して大原の来迎院(らいこういん)一帯を魚山と称し、仏教音律の根本道場として興隆しました。その後、一時衰退したものを良忍が再興。良忍は、音階を整理し、実技と理論を建て直し、在来の法流を統一して魚山流声明を大成しました。それが、声明の中興の祖として仰がれているゆえんです。つづく