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宗教のいろはタイトル

グラコム2012年1月号掲載

釈迦の教えについてE

今回は「慈悲(じひ)」についてです。
仏教には「四無量心(しむりょうしん)」「四つの無量な心」という考え方があり、釈尊は悟りを開いて、次の四つの心を持っていたと言われています。
慈(じ)…与楽(よらく)といい、他者に楽を与えること。
悲(ひ)…抜苦(ばっく)といい、他者の苦を取り除くこと。
喜(き)…他者の喜びを素直に喜べること。
捨(しゃ)…自身の様々な欲を捨て去ることができること。
この四無量心の中にある「慈」と「悲」が「慈悲」の根源だと言われています。のちの大乗仏教では「慈悲」という言葉が大きく取り上げられるようになりました。
さて、この慈悲は「衆生縁の慈悲」「法縁の慈悲」「無縁の慈悲」という三つの段階に分けて考えられました。
衆生縁の慈悲とは、人々を対象にしたという意味で他者に対する抜苦与楽のこと。法縁の慈悲とは、仏法、つまり仏の教えを対象にした慈悲のこと。そして、無縁の慈悲とは対象がない慈悲で、仏教では「空」という教えがあるように何にもかたよらない、悟りを開いた仏が持つ慈悲のことを言っていると思います。
何だかよくわからなくなってきたかも知れません。
仏教における「慈悲」の本当の意味は、悟りを開く努力をしていくことによって見えてくるもので、生きている我々衆生が他者に対して思いやりの心を持ちながら、四無量心を持つための努力を惜しまないことが「慈悲」なのではないかと思います。つづく

グラコム2012年3月号掲載

釈迦の教えについてF

今回は「悟りと涅槃(ねはん)」についてです。
皆様は、「釈尊が悟りを開いた」とか「悟りの境地に達した」などと耳にしたことがあるのではないでしょうか。悟りのもともとの意味は、原語のサンスクリット語では「ボーディ」、漢語では「菩提」です。「真理を追究しそれに目覚めること」と訳すことができます。
社会に生きている我々は日々、煩悩に悩まされ迷いながら生きています。しかし、釈迦は様々な苦行で真理を悟ろうとしましたが達することができず、快楽でもなく苦行でもないどのようなことにもかたよらない「中道(ちゅうどう)」が真理に目覚めることができる道である。ということで悟りを得たと言われています。
「涅槃」とは何でしょう。普段の生活ではあまり聞きなれない言葉ですが、仏教関連の美術では涅槃像とか涅槃図という表現がありますので聞き覚えのある方もいると思います。
涅槃とは、原語のサンスクリット語では「ニルブァーナ」といい、これは、「火を吹き消すこと」「吹き消した状態」を意味します。つまり、「煩悩の火を吹き消した状態」だと訳すことが本来の意味だと言われます。
先ほどの「悟り」とよく同じように使われることが多いのですが、「悟り」の境地に至った状態を「涅槃」と呼ぶことが本来の意味から正しいように思います。以前、「涅槃寂静(じゃくじょう)」という表現が、仏教の大切にしている考え方の「三法印」の一つであるというお話をいたしましたが、涅槃である状態は、煩悩がすべて取り払われている状態ですので、なにものにもとらわれることのない静けさがあるということから「涅槃寂静」という表現で表されているものと考えます。つづく

グラコム2012年5月号掲載

お経の成り立ち@

 この連載を始めて間もない頃にお経についてお話をしました。何年も前のことですので、その「お経(経典)」について何回かに分けてお話をしたいと思います。
仏教は、キリスト教・イスラム教と並んで世界宗教と呼ばれています。 それぞれに聖書やコーランというように、その教義の根本精神を説いたものがあります。仏教ではそれがお経(経典)にあたります。しかし、聖書やコーランのように一冊ではなく、八万四千の法門とよばれていて、膨大な量があります。お経(経典)は、釈尊が生きている間に作られたものではなく、入滅後に千数百年にわたって作られ、また教えに対する解釈の違いから上座部仏教、大乗仏教、密教などがそれぞれ体系化して、新しい経典を作ってきたことに起因しています。
さて、釈尊が入滅した後の数百年は、その教えは文章化されずに口承によって伝えられていました。その後、仏教が盛んになり、社会情勢が変化するに従って、教えをどのように解釈するかで様々に分派していきました。そして、文字として記録する必要が生じたことから紀元前一〜二世紀頃に原始経典が生まれたと言われています。現存する最古の経典はパーリ語の「ニカーヤ」と呼ばれるもので、現在までスリランカや東南アジアで使われています。その一部が「阿含経(あごんきょう)」として中国で漢訳されています。「阿含」とは、アーガマ(伝承された聖典)という意味の音写です。
また、これらの経典は、釈尊の教えすなわち説法を記したものとして「経(きょう)」、仏弟子として守らなければならない「戒(かい)(個人の規則)と律(りつ)(集団の規則)」、教えを様々な方面から研究した「論(ろん)」との三つに分けることができ、それぞれまとめたものを、経蔵(きょうぞう)・律蔵(りつぞう)・論蔵(ろんぞう)と呼び、合わせて三蔵(さんぞう)と言われています。つづく

グラコム2012年7月号掲載

お経の成り立ちA

 前回に引き続きお経についてお話します。
現存する最古の経典はパーリ語の「ニカーヤ」と呼ばれるものだというお話をしました。この中に収められている経典に「経集(きょうしゅう)・スッタニパータ」があります。まだ出家者が、僧院等に定住せず、質素な生活を送っていた頃の様子が描かれています。これは、釈尊と弟子たちの会話で綴られた七十程度の小さな経を集めたのもで、言葉も以下の例のように素朴で簡素に書かれています。
「目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生けとし生けるものは、幸せであれ。」(中村元訳「ブッダのことば」より)
しかしながら、簡素がゆえに釈尊の直接の言葉に近いとされ、仏教の思想や初期の教団の状況などを伝えている重要な経典と言われています。
また、「経集」とともに最古の経典と言われ、広く親しまれているものがあります。それは、「法句集(ほっくぎょう)ダンマパダ」と言われるものです。釈尊の教えには、縁起(えんぎ)・四諦(したい)・八正道(はっしょうどう)・四法印(しほういん)などの仏教の本当に基本となる考え方がありますが、その内容について、たとえ話を用いながらわかりやすい言葉で書かれています。
パーリ語の原典をはじめとして、サンスクリット語、ガンダーラ語、中国語、チベット語などでアジア全域に広がり、ヨーロッパなどでも訳されて仏教の研究がなされ、知名度の高い経典です。しかし、日本では大乗仏教が広まっていたためにあまり重要視されなかったというのが現実のようです。明治や昭和以降に「ダンマパダ」がヨーロッパで仏教の重要な文献として扱われていたため注目を集めてきたといわれています。つづく

グラコム2012年9月号掲載

お経の成り立ちB

 前回に引き続きお経についてお話します。
前回までは、現存する最古の経典の話をしました。その後、仏教は南方に伝わり釈尊の教えを忠実に守ろうとして発展した上座部仏教と、釈尊が教えた心を中心に誰もが仏になる可能性を秘めていて、第一に他者を救うことを考えた菩薩の道を説く大乗(だいじょう)仏教に分かれ、大乗仏教は北伝して日本に伝わりました。乗とは乗り物を意味し、大乗仏教に対し、上座部仏教を小乗仏教と呼んでいたこともありましたが、現在は蔑視の表現にあたることを鑑みてほとんど使われません。
さて、その大乗仏教でも経典が存在し、まとめて大乗経典と呼ばれています。大乗仏教は釈尊入滅後数百年たってから成立し、その経典は、一般的に成立時期から初期・中期・後期に分けられています。
それぞれの特徴は、
【初期】…大乗仏教の中心的な考え方である「六波羅蜜(ろくはらみつ)」や「空(くう)」の思想が説かれ、阿弥陀仏などの仏が説かれた時期。『法華経(ほけきょう)』『華厳経(けごんきょう)』『般若経(はんにゃきょう)』「浄土三部経」である『無量寿経(むりょうじゅきょう)』『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』『阿弥陀経(あみだきょう)』などが成立した。
【中期】…如来蔵(にょらいぞう)思想として、誰もが仏になる可能性を持っているという考えや唯識(ゆいしき)思想として、万物は心の意識によって存在しているという考えが打ち出された時期。『大集経(だいじつきょう)』『解深密教(げじんみっきょう)』『楞伽経(りょうがきょう)』『勝鬘経(しょうまんぎょう)』などが成立した。
【後期】…密教の諸経典が成立した時期。密教では釈尊ではなく大日如来が教え説くという形になっています。『大日経(だいにちきょう)』『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』『理趣経(りしゅきょう)』などが成立した。つづく

グラコム2012年11月号掲載

日本の仏教に関係の深い人物@

 今回からは人物にスポットを当てて仏教との関わりについてお話します。
最初に、忘れてはならないのが聖徳太子だと思います。
日本の仏教は、朝鮮半島の百済(くだら)の聖明王が仏像と経典などを欽明天皇に送った頃から始まるとされています。この後、蘇我氏と物部氏が仏教崇拝をめぐって争いを起こし、結局は物部氏が勝利を収めました。この後に、日本(当時の大和朝廷)は、本格的に仏教を受け入れることになりました。
さて、用明天皇の第二子として生まれた厩戸皇子(うまやどのおうじ)こと聖徳太子は、先の蘇我・物部両氏の争いで蘇我氏について戦いに参戦。物部氏側に対し、四天王の仏像を作り、「この戦いに勝った時には四天王をまつる寺を建立し、さらに仏教の普及に努める」という誓いを立て(諸説あり)、戦いに勝利したと言われており、その後、推古天皇の摂政として蘇我氏と共に天皇を補佐し政治に参加しました。
さて、太子は法隆寺、四天王寺などを建立。四天王寺は先の戦の誓い通りに、四天王をまつるための寺として建立したと言われています。また、仏教興隆の詔を出し、寺院建立と共に仏教の普及に努めたとされています。また、「十七条の憲法」を作成。その第二項には「三宝をあつく敬え、三宝とは仏・法・僧である。」と記し「三宝への帰依」を掲げました。遣隋使を派遣して、隋との直接交流を始めたり、冠位十二階の制定も行ったりしたことは良く知られています。
また太子は「※三経義疏(さんぎょうぎしょ)」という大乗仏教経典の注釈書を著したと言われ(真偽は諸説あり)、仏典をよく理解し、仏教の興隆に力を注いでいたことがよくわかります。その晩年は、政治から離れて、もっぱら、法隆寺や斑鳩(いかるが)寺などで仏教について修行し研鑚を積んだとされています。
※三経義疏…勝鬘経(しょうまんきょう)、維摩経(ゆいまきょう)、法華経(ほけきょう)のそれぞれの経典に太子が注釈を加えたとされる書のことつづく