グラコムjp(北見・網走方面の無料宅配情報誌サイト)

宗教のいろはタイトル

グラコム2011年1月号掲載

浄土真宗についてD

今回は、「歎異抄(たんにしょう)」について少し触れてみたいと思います。歎異抄は親鸞聖人の晩年の直弟子であった唯円(ゆいえん)が著者だと言われています。唯円は、常陸国河和田(現在の茨城県水戸市河和田)の報仏寺の開基でもあります。
「歎異抄」がつくられた背景には、親鸞が東国から帰京したあとの東国で、親鸞の教えに対して様々な異議が生じ、異端を説くものが現れ、東国門徒が混乱しました。また、その後も親鸞の教えとは異なる教義を説くものが後を絶たなかったことから、唯円は、それらの教えは親鸞聖人の教えを無視したものであるとおおいに嘆き悲しみ、なんとかして事態を収拾すべく本書をしたためたと言われています。「歎異抄」の歎異(たんに)とは、前述したように字のごとく、正しい教えに反する異を歎(なげ)くという意味です。
「歎異抄」の構成は、前篇の師訓十章(十条)と言われる部分が、親鸞聖人がお話になった教えであり、後篇の異義八章(八条)と言われる部分が唯円の歎異を記しています。
皆様方もよく耳にする有名な言葉が第三章(三条)に書かれています。「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや・・・」の悪人正機つまり、悪人こそがまさしく教えの対象となる資質をもつ者と言われているものです。これは法然から親鸞へと伝わり、唯円が「歎異抄」に著したものです。ご承知の通り、阿弥陀仏の救いの趣旨を示したものです。
また、第七章(七条)には「念仏者は無碍(むげ)の一道なり。そのいわれ如何とならば・・・」と記されています。このことこそが、親鸞聖人がおっしゃる人生の目的であり真の幸福だと言われている気がします。つまり、阿弥陀仏の本願に救われることで、心から湧き出す念仏ができ、「無碍」つまり、何のさわりもない世界に向かうことができる。そんなことをおっしゃっているのではないでしょうか。つづく

グラコム2011年3月号掲載

釈迦の教えについて@

今回からは釈迦の教え、仏教の原点について何回か連載したいと思います。
仏教徒は「三宝に帰依する」ことが大切だと耳にすることがあると思います。また、そのことが仏教徒としての根本的な考えであるとも言われます。その三宝とは、「仏」…釈迦も含め、悟りを得た仏、「法」…釈迦の説いた教え、「僧」…出家をした僧(もともとは出家者の集団を意味していた。)の三つを言い、この三者は密接に関係し、いずれも仏教の存立に欠かすことのできない重要な要素であり、仏教徒にとって最も尊いものとして三宝と呼ばれています。
「帰依する」とは、心の拠りどころにすると言い換えられるでしょう。つまり、もっとも大切な仏・法・僧を心の拠りどころとすることだと言えます。これは現在、日本にあるたくさんの宗派に関係なく、仏教徒であれば「三宝に帰依する」ことがまず大切であるのです。
釈尊は晩年に、自灯明・法灯明として有名であり、弟子に話した一節に「自らを拠りどころとして、他者を拠りどころとせず、法を拠りどころとして他のものを拠りどころとしないことだ」という内容があります。その中で言われている法とは「仏・法・僧」すべてのことを表していると考えるのが妥当ではないかと私は考えます。自らに自信を失った時、誰もが何かにすがりたい気持ちになることがあると思いますが、仏教徒は三宝に帰依することでその三宝である法を心の拠りどころとすべきである。と述べているのだと思います。
また、その中で話されている、他者を拠りどころとしないことは他者と協調しないことではなく、人間は助け合い、人と関わることによって生きているのですから、そのことを否定しているのでもなく、正しい自分をしっかりと確立し、そのことを拠りどころにすることが大切であると釈迦はお話されたのではないかと考えます。つづく

グラコム2011年5月号掲載

釈迦の教えについてA

今回は三法印についてです。
仏教が大切にしている考え方を「三法印」と言います。これは、のちに仏教の考え方を整理してまとめられたもので、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」「諸法無我(しょほうむが)」「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の三つを指しています。
「諸行無常(しょぎょうむじょう)」とは、この世のすべてのものは変化し、永遠に普遍なものは存在しない。という意味です。つまり、私たちはよい状態があるとつい、ずっとそのままでいるのではないかと錯覚したり、そうでないと苦しんだりします。ものごとは無常であることを知ることにより、楽しいことにも苦しいことにもしっかりとした対応ができるのではないでしょうか。
「諸法無我(しょほうむが)」とは、そのまま読めば、すべてのことには、主体となる我(が)がないことを言いますが、わかりやすく言えば、この世には独立して存在するものはなく、すべてのものはいろいろなものと様々に関係があって存在している。ということです。つまり、自己中心主義が行き過ぎて、「自分だけがよければいい」ということでは孤立したり、いさかいを起こしたりする。他のことを思いやるこころや感謝するこころを持たなければならないということではないでしょうか。
「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」とは、あらゆる煩悩がなくなって「さとり」を得た状態をいいます。人が感じる苦しみは欲や執着心といった煩悩が引き起こします。それを取り去ることで静寂で安らかなる状態になることができます。これを「涅槃(ねはん)」と言っています。
また、これら「三法印」に「一切皆苦(いっさいかいく)…すべては自分の思いどおりにならない。とか、すべてのことは苦しみである。という意味。」を加えて「四法印」と言われることもあるようです。つづく

グラコム2011年7月号掲載

釈迦の教えについてB

 今回は「空(くう)」についてです。
仏教で大切な教えの一つに「空」という考え方があります。説明も理解もしづらいのですが仏教には欠かせないことの一つなのでなんとか簡単にお話をしたいと思います。
人生はその人の思い通りにはいかないものです。楽あれば苦ありのことわざ通り。また人は、様々なことに固執するあまり煩悩(ぼんのう)が生まれ、それが仏教の教えの中では「悟り」に至ることができない原因の一つになっています。その煩悩をなくすために仏教では、すべての物事は「空」であると捉えるのです。その教えを深く追及したのがインド仏教の「龍樹(りゅうじゅ)」と言われる有名な僧です。
さて「空」とは、サンスクリット語でシューンニャの訳で「膨れあがり中身がからっぽ」とか「実体がない」とかの意味であり、「空」とは単に何もない「無」ということではなく、有ることもないこともすべての事柄・存在は実体がないということを表しています。何の事だかよくわかりませんね。
仏教では事柄の成り立ちは「縁起(えんぎ)」によるものと釈尊は説きました。「縁起」とは、「因縁生起(いんねんしょうき)」の略で、この世のあらゆるものは、「因」という直接の原因と「縁」という間接の条件によりお互いが関係しあって成り立ったりなくなったりしている。ということです。よくあるたとえでお話すれば、植物は、種が「因」にあたり、土、養分、太陽等が「縁」になります。つまり、どちらが欠けても植物は育ちません。人間も生まれてから亡くなるまで様々な成長過程がありますが、それもすべて「縁起」によるのです。右があるから左があり、子どもがいるから親であるわけです。
つまり、すべてのものから独立して存在しているものはなく、この世のすべての事柄・存在は、私たちが頭で創り出した概念にすぎなく、すべての事柄・存在は実体がない「空」であると捉えることによって、煩悩がなく「悟り」に近づけるのだと教えています。
なんだか説明している私もわからなくなってきましたが(笑)、少しはお分かりいただけたでしょうか。つづく

グラコム2011年9月号掲載

釈迦の教えについてC

今回は「煩悩(ぼんのう)」についてです。
「煩悩」とは、サンスクリット語の「クレーシャ」を漢語訳した言葉でもともとの意味は「汚すもの」とか「苦しめるもの」です。ものへの愛着や自分本位で偏った考え方から起こり、心身を悩ませて正しい判断を妨げ、苦を引き起こす心の働きと考えられています。
釈迦はそのことについて具体的に分類や体系を作りませんでしたが、その後に理論化され、現在は貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)、縮めて「貪(とん)・瞋(しん)・痴(ち)」の三つが煩悩の根源であり、この三つを合わせて三毒(さんどく)であるとか、三垢(さんく)であるとかと言っています。それぞれは次のような意味を持ちます。
貪欲(とんよく)…ものやひとなどに執着することで、人がもつ欲望のこと。
瞋恚(しんに)…人に対する嫌悪や憎悪・怒りなどのこと。
愚痴(ぐち)…真実が分からないこと。無知なこと。 また、煩悩はその他にも数多く存在し、俗に百八あると言われているのはご承知の方も多いと思います。除夜の鐘の数や数珠の玉の数も百八が基本になっているのも煩悩の数に起因するといわれることもあります。
そして、貪欲と瞋恚のふたつの感情を捨て去ることができれば、苦はなくなると言われています。
これらの煩悩の根源が「愚痴」です。前回、縁起についてお話をしました。縁起とはすべてのものごとは、お互いに関係し合っているということです。この縁起の考え方から老死(ろうし)という苦しみの原因をたどっていくと無明(むみょう)という根本の原因までたどりつくという考え方があります。愚痴とこの無明とは同じ意味で、この無明を無くすことができたら、最終的にある老死の苦しみもなくすことができるのです。つまり、諸行無常の真実を知れば、心は「貪・瞋」の煩悩を離れて苦しみから解放されると言えるでしょう。
やはり仏教の考え方は難しいですね。だからこそ、信じることが大切なのではないでしょうか。つづく

グラコム2011年11月号掲載

釈迦の教えについてD

今回は「輪廻(りんね)と業(ごう)」についてです。
仏教は、釈尊によってインドから広まりました。その当時のインドは、バラモン教(現在のヒンドゥー教)の社会で、人は前世の「業」により死後の生まれる世界が変わる「輪廻転生(りんねてんしょう)」の思想を持っていました。ただ当時の釈尊は、死後の世界について明確に答えを出していなかったため、輪廻転生の思想については、肯定も否定もしていなく、現世の中で功徳を積むことに重きを置いていたようです。
さて、前述の「業」とは「行為」という意味であり、自分の行為の結果は必ず自分自身に現れるという意味の「自業自得(じごうじとく)」は皆様もご承知だと思います。
ただし釈尊は、輪廻の思想にある前世の行いで現在が決められ、努力しても現状は改善できないということは否定していました。人は精進し、努力を重ねることで現世において悟りを得ることもできるという考え方を持っていました。つまり、宿命、神の意志などは否定したのです。
さて、釈尊が亡くなった後、ヒンドゥー教の世界で仏教を広めるために、輪廻転生の考え方を仏教も取り入れざるを得なくなったようです。そして生き物は生前の行いによって六つの世界「六道(りくどう)」に生まれ変わると考えました。この六道を輪廻することを「六道輪廻」と言っています。六道とは次の六つのことです。
【天道】…天人の住む苦の少ない世界。しかし煩悩はなくならない。
【阿修羅道】…阿修羅の住む争いや怒りの堪えない世界。
【畜生道】…人以外の動物の世界。ほぼ本能だけで、救いの少ない世界。
【飢餓道】…つねに飢えと渇きに苦しむ世界。
【地獄道】…裁きを受け、罪を償うための世界。
そしてこの六つすべては苦の世界であり、逃れるためには悟りを得ることしかないと言われています。つづく