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宗教のいろはタイトル

グラコム2009年1月号掲載

神道についてC

今回は参拝するときの作法について簡単にお話をいたします。
お正月には多くの方々が神社に参拝されることと存じます。皆様もよくご存じだと思いますが、その時の作法についておさらいしてみようと思います。
神社の入り口は鳥居であり、その先は神聖な場所です。まずは、鳥居で軽く一礼します。その後参道を歩いて拝殿に向かいますが、真ん中は神が通ると考えられているので参道は真ん中よりすこし端を歩くのが作法です。混雑していれば仕方のないことだとは思いますが、頭に入れておきましょう。本来は鳥居を入った後、手水舎(てみずや、ちょうずや)で身を清めてから進むのが作法ですが、北海道のお正月は寒さで使えませんからここは省略いたします。しかし、昔から神と向き合うときには「心身を清めること」が大切であると言われていますから、そのことはしっかりと覚えておきましょう。
拝殿の前では賽銭(さいせん)をした後、鈴を使うことができれば鈴を鳴らしておまいりします。賽銭は、古来神仏に捧げるお供物の一つでした。
以前は日本人の生活に欠かせない大切なお米を紙に包んで供えたことが多かったようですが、現在では金銭を供えることが一般的になり賽銭として定着しています。また、鈴には魔除けの霊力があるとか神の注意を引くとか様々ないわれがあるようです。
おまいりの際は「二拝二拍手一拝」の立礼が標準的な作法です。深くお辞儀を二回した後二回拍手をし(「かしわで」を打ち)、最後に一度お辞儀を行います。(ただし、神社によっては違うところもありますのでご注意ください。)「かしわで」を打つというのは柏(かしわ)の葉のように手の指を合わせて手を打つことからそのように言われます。神道は形式を重んじる宗教でもありますので作法は心を込めてしっかり行うことが大切です。
また、お正月には神棚、玄関等に注連縄(しめなわ)を飾る方も多いと思いますが、注連縄は神話にある、アマテラスが天の岩戸から出られたときに岩戸に縄を張り、再び中に入ることが出来ないようにした「尻久米縄(しりくめなわ)」が起源とされ、神の領域などの清浄で神聖な場所とそれ以外を仕切るものとして現在使われています。もちろんほとんどの神社で使われています。つづく

グラコム2009年2月号掲載

神道についてD

今回は神事(しんじ)芸能について簡単にお話をいたします。
神事芸能とは、神社等で神に奉納される芸能の総称です。わが国の伝統芸能のルーツをたどると神事に由来するものが多く、お祭りの際に行われていたものが伝統芸能として発達していったと言えるのではないでしょうか。
その中でも神楽(かぐら)は有名なものの一つです。語源は「神座(かみくら、かむくら)」から転じたという説が一般的で、神座とは「神の宿るところ」という意味で、そこを中心に厄を払ったり、神からの言葉を伝えたり、神に願いを伝えたりする宴を催し、歌ったり、舞ったりすることを神楽と呼ぶようになったようです。宮中においてなされた神楽を「御神楽(みかぐら)」と言い、現在も宮中の賢所(かしこどころ)にて十二月に毎年開催されています。一方、民間で発達したものを「里神楽(さとかぐら)」といい、里神楽は巫女神楽、出雲流神楽、伊勢流神楽、獅子神楽(獅子舞の一種です。)等があり、皆様がよくご存じなのは獅子舞ではないでしょうか。獅子舞は全国各地で様々に発達し、同じものが二つとないとも言われています。
踊りと音楽で構成される「舞楽(ぶがく)」もその一つです。その音楽は雅楽(ががく)と称され、日本古来の「国風歌舞(くにぶりのうたまい)」(※音楽だけでなく舞も含めて広い意味で雅楽に含めています。)や大陸伝来の「唐楽(とうがく)」、朝鮮半島伝来の「高麗楽(こまがく)」等があります。「国風歌舞」には東遊(あずまあそび)、倭舞(やまとまい)等様々な種類があります。また、唐楽は「左方舞(さほうまい)」、高麗楽は「右方舞(うほうまい)」と呼ばれています。また、大陸からは軽業、物まね、曲芸などを中心とした散楽(さんがく)という芸能も日本にもたらされ、のちに猿楽(さるがく)・田楽(でんがく)(※田植えの前に豊作を祈る田遊びから発達したとも言われています。)・能楽(のうがく)(※能・式三番・狂言の三つの分野に分けられます。)へと発展していきまた。その他にも様々な各時代の芸能の多くが神事芸能として現在も各地に伝承されています。つづく

グラコム2009年3月号掲載

お香について

お香について、以前に現在までの時系列でお話をいたしましたが、今回からは何回かに分けて大きな節目となった時代について多少詳しくお話をさせていただきます。
日本書紀によれば我が国に最初に香木が伝わったのは五百九十五年。香木が淡路島に漂着したと記されています。しかし、その五十年ほど前に百済から仏教が伝来(百済の聖明王から欽明天皇に釈迦仏等が贈られた)しており、当時は仏前に花を供え、燈明を灯し、香を焚くという仏教儀礼の一つとして香がよく使われていたことから考えると、仏教の伝来と同時に大陸から伝わったというほうが自然なのかも知れません。
その後、日本は仏教や香の伝来によって大陸の文化に強く影響を受けるようになり、奈良時代になって聖武天皇が即位してからは、日本古来の文化と大陸から入ってきた道教や仏教などが融合された独特の文化が形成され、日本書紀や古事記等も編纂されて、日本がどのような国であるかの位置づけがされていきました。また、皆様もよくご存じだと思いますが、聖武天皇の遺品を収蔵するために建てられた奈良の正倉院には日本に現存する最大の香木であるといわれる全長一・五メートルほどの蘭奢待(らんじゃたい)と呼ばれるものも残されています。中国を経て輸入され東大寺に伝わったことから、その名がつけられました。蘭奢待という字をよく見ていただければ東大寺の文字がその中に隠されているのがわかると思います。また、その中には仏事に関係する香炉類がたくさんあり、当時の香が仏教と深く関わっていたことを知ることができるのではないでしょうか。
お香は当時仏教儀礼でよく使われていましたが、鑑真(がんじん)が中国から渡来され、律宗(りっしゅう)(※南都六宗の一つで奈良の唐招提寺を総本山)と共に「香の配合知識」も日本に伝えました。そのことにより様々な香料を使い、それを配合して香を楽しむことが始まりました。つまり、仏に使われていた供香(そなえこう)だけではなく、自らの居住空間において香を薫く(たく)習慣が生まれました。これは「空薫物(そらだきもの)」と呼ばれています。つづく

グラコム2009年4月号掲載

お香についてA

七九四年に桓武天皇によって都が山城の国、現在の京都(平安京)に移されて本格的に平安時代の幕開けとなりました。平安時代になって香は仏教儀礼以外にも薫く(たく)習慣が生まれ「空薫物(そらだきもの)」と呼ばれ、室内だけでなく、平安貴族たちの嗜み(たしなみ)として衣装にも薫かれるようになっていきました。平安時代の初期は中国の影響を受けた唐風文化が主流でしたが、徐々に和様文化が進み、平安中期には国風文化が浸透してきました。九○○年代の「古今和歌集」「土佐日記」、一○○○年代には清少納言の「枕草子」、紫式部の「源氏物語」など皆様もよくご存じのことと思います。
その中で香は、平安和歌と結びついて文学的世界を形作り、このころに宮廷で流行していた、様々なものを比較して優劣を競う「歌合(うたあわせ)」や「絵合(えあわせ)」「物合(ものあわせ)」の一つとして「薫物合(たきものあわせ)」が知的な遊びとして貴族社会の中で定着していきました。その後、香は教養の一つとしても育まれ、その人となりを知るための要素としても位置付けられていったことから、たいへん重用されていたようです。香の配合は六種(むくさ)の薫物(たきもの)と呼ばれる六種類が基本であり、それぞれ沈香・丁子・白檀などの香木を粉末にして様々な割合で配合し、はつみつや梅肉等で固めたものです。六種類の呼び名は、梅花(ばいか)、荷葉(かよう)、侍従(じじゅう)、菊花(きっか)、落葉(らくよう)、黒方(くろぼう)で、春夏秋冬を題材にして香料の配合がなされていました。
さて、平安末期より武士が台頭し、一一九二年に鎌倉幕府が開かれました。また、日本に臨済宗を伝えた栄西が禅の教えを広め、それが武家に多くの信奉者を得て広まったこともあり、香は平安時代に流行った優雅な雰囲気のある空薫ではなく、様々な香料は配合せずに、ただ香木をくゆらせて楽しむことが流行しました。それは前述の禅の教えにも通じるところがあり、ただ一心に心を静めて坐禅を行うのには、優雅さよりも心を鎮めるために香りを薫くことが優先されたからではないでしょうか。つづく

グラコム2009年5月号掲載

お香についてB

さて室町時代に入り、禅宗の影響を受けたお香は天然の香木をくゆらせて楽しむことからまた一歩進み、香を鑑賞する聞香(もんこう)の基礎が確立されていきました。聞香とは一定の作法のもと香を聞くことを言います。香は嗅ぐという表現だと粋ではないとか、あか抜けしない等の理由から聞くという表現を用いますので聞香と呼ばれています。室町時代は、皆様ご存じの北山文化を代表する鹿苑寺金閣、東山文化を代表する慈照寺銀閣が建立された時代です。
初期の頃は、派手な行動で旧来の概念や行動を越えようとする人たち【「婆沙羅」(ばさら)と呼ばれていました。】により香木をたいてその種類を当てる遊びが流行りました。婆沙羅大名として有名であった佐々木道誉(どうよ)のエピソードで、一斤もの香木を桜の宴で一度にたいたとも言われています。その後の東山文化は当時の文化人が多く集って開花したため、香の世界でも多くの種類を大切にしながらごく小片を切り取ってその香りを観賞するという方法が確立していったのです。つまり聞香です。
今日の香道の始祖と呼ばれている御家流(おいえりゅう)の三條西実隆(さんじょうにしさねたか)や志野流(しのりゅう)の志野宗信(しのそうしん)が活躍したのもこの頃です。茶道や華道もこの頃に確立したといわれています。
また、組香(くみこう)と呼ばれる香をあてる遊びが確立していったのもこの頃からです。十種類の香が基本で、香りの異同を当てる遊びです。季節や文学、教養などたくさんのテーマのよって様々な遊び方が創出され現在まで発展しながら続いています。その中でも有名で親しまれているものが「源氏香」と呼ばれるもので、文字通り、源氏物語に想を得た組香です。源氏物語の全五十四巻のうちの巻頭と巻末を除いた五十二巻に「源氏香の図」というものを当てはめて与えられた香の異同を聞き分けて答えを導く遊びです。つづく

グラコム2009年6月号掲載

お香についてC

江戸時代に入り、経済力を持った町人の間にも香が広がりはじめました。また、庶民が日常に使用する袖香炉や香枕などの身だしなみとしての香道具も様々に工夫されました。
さてこの頃、京都の禁裏(天皇家)御用達の紅商人であった米川常白(よねかわじょうはく)と言う人物が現れています。香聞きの名人であるとの話が伝わり、※東福門院様に見出されて、禁裏所持の名香などの香聞きを行いながら、「六国五味(りっこくごみ)」で香を鑑別する方法を確立し、現在もその方法が伝わっています。米川常白は五つの味覚「五味」を嗅覚(きゅうかく)に導入したのです。甘(あまい)、酸(すっぱい)、辛(からい)、苦(にがい)、鹹(しおからい)の五つです。また、「六国」とは香木に含まれる樹脂の質と量の違いから分類されるもので、伽羅(きゃら)、羅国(らこく)、真南蛮(まなんばん)、真那賀(まなか)、佐曾羅(さそら)、寸門多羅(すもんたら)の六つです。そして、米川常白は生涯、組香で一つも聞き洩らすことがなかったと伝えられています。
またこの時代は「お線香」が伝わったことがお香の世界の幅を広げたと言えるでしょう。宇治の黄檗山(おうばくさん)万福寺(まんぷくじ)を開いた隠元が煎茶を日本に伝えたと言われていますが、その頃と時を同じくしてお線香の製法が日本に伝わったと言われています。(諸説あり。)そして現在でも煎茶の席で焚かれるのは香木や練香ではなくお線香なのです。また、お線香はこの時代に時間を図る役目も果たしており、坐禅を行うときに一ちゅうという単位(線香が一本燃え尽きるまでの時間。約40分程度)を使っていました。また、当時は線香が仙香とも通じ、つまり香のかおりが長く久しく保たれることから仙人のように長寿に通じることと捉えられたことから文人墨客(ぶんじんぼっかく)に特に好まれたとも言われています。
※東福門院(とうふくもんいん)…
第二代将軍徳川秀忠の五女で徳川和子(まさこ)。108代の後水尾(ごみずのお)天皇の中宮(皇后の意)。109代の女帝である明正(めいしょう)天皇の生母。 つづく

グラコム2009年7月号掲載

密教について

今月からは仏教について人物、歴史等様々な視点からお話をしてみたいと思います。
まずは、密教(みっきょう)についてです。
密教とは何か。については以前何度かお話をしましたが、顕教(けんきょう)に対比されて使われる言葉です。歴史をひも解けば、密教はインドにおいて成立しています。密教では、
※1 森羅万象(しんらばんしょう)のすべては、大日如来(意味は太陽のような存在の仏)の悟りの世界の表れであるという考えを持ち、その教えを直接聞くために、手に印を結び、言葉に真言を唱え、心に仏の世界を描く三密(さんみつ)修行を行うことで悟りを得、即身成仏(そくしんじょうぶつ)できるという教えです。日本密教の成立には、遣唐使の留学僧として唐において学んだ二人の宗祖の空海と最澄が大きく関わり、また代表される僧です。最澄は天台宗、空海は真言宗の宗祖として有名であり、また、最澄は清和天皇から伝教大師、空海は醍醐天皇より弘法大師の諡(おくりな)を下賜(かし)されています。空海に関しては、弘法大師の謚の方が有名ではないでしょうか。
さて、その二つの宗派が日本の密教の代表的なものでありますが、真言密教は京都府の東寺を中心に発達していったことから東密(とうみつ)といい、天台密教を台密(たいみつ)といっています。最澄は短期の留学生として、空海は長期の留学生として遣唐使といっしょに入唐し学びますが、最澄は天台宗を学ぶために入唐しています。その中で一番重んじられていたのは「法華経」であり、その中には「一乗説」(すべての人が成仏する可能性を持っていると説かれていること)があることから天台宗では一番重んじられていました。一方、空海は唐において青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果(けいか)との出会いが、その生涯を決定づけたといえます。恵果は中国密教の大成者であり、余命が少ないことを自覚していた恵果は空海を一目見てその才能を見抜き、受け継いだ密教の教えをすべて空海に伝えたと言われています。つまり、日本において当時、密教については空海が一人者であり、そのために最澄も弟子たちと空海から※2 灌頂(かんじょう)を受けています。
※1 森羅万象…宇宙に存在するすべてのもの。あらゆる現象、あらゆる事物。
※2 灌頂…密教において、一定の地位を得る時等に行われる儀式。つづく

グラコム2009年8月号掲載

密教についてA

密教についての二回目です。
日本の密教には東密と台密とがあることはお話しました。どちらの密教にも大切な経典について今回は簡単にお話をいたします。「大日経(だいにちきょう)」と「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」の二つです。これらの経典は七世紀にインドで成立したと言われ、中国を経由して日本に伝わっています。これらの経典は空海が唐の恵果(けいか)にその意味について学び「両部(りょうぶ)の大経(たいきょう)」として日本で教えを広めています。
まずは大日経についてですが、大日如来が直接語りかけるという内容を持つ最初の経典だと言われています。この経典は、悟りに到達するための心のありようが根幹となっています。それは第一巻で「菩提心(ぼだいしん)を因(いん)とし、大悲(だいひ)を根(こん)とし、方便(ほうべん)を究竟(くきょう)とする。」と書かれています。これは、悟りを求める心と万物に対する慈悲を持ち、救いの具体的な手段を実践することで悟りの世界が開けるという意味だといえます。そして、第二巻以降で実践する行について書いてあります。
金剛頂経については、釈尊が一切義成就(いっさいぎじょうじゅ)という名前の菩薩(ぼさつ)として問いかけ、大日如来が答えるという形で書かれています。内容は、「五相成身観(ごそうじょうしんかん)」と言われる五段階の即身成仏への道が書かれています。その五つの意味を簡単に書き記すと、
○通達本心(つうだつほんしん)…悟りを求める心を自覚すること。
○修菩提心(しゅうぼだいしん)…修行を重ねその心を清らかに保つこと。
○成金剛心(じょうこんごうしん)…その心を強固にすること。
○証金剛身(しょうこんごうしん)…身も心も仏と一体になること。
○仏身円満(ぶっしんえんまん)…自己が仏と一体であることを悟ること。 この二つは、密教の根本経典と言われています。日本では真言宗と天台宗にとって大切な経典ではありますが、真言宗と違い天台宗は、法華経を根本経典としています。つづく

グラコム2009年9月号掲載

密教についてB

密教についての三回目です。
皆様は、たびたび加持祈祷(かじきとう)であるとか護摩(ごま)とかいった言葉を耳にすると思いますが、密教では大切な意味を持っています。加持祈祷の「加持」とは、弘法大師空海はその著書「即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)」の中で、「加持とは如来の大悲と衆生の信心とを表わす。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく」と書いています。「加」は、仏の慈悲の心が常に衆生に注がれていることを言い、「持」とは、修行を重ねている人は仏の心がよくわかるということを言います。つまり「加持」とは、仏の教えを聞こうと一生懸命努力することと仏の慈悲の心が相応し、様々な加護が得られること。と言えます。一方「祈祷」とは神仏の加護を願い、言葉によって神仏に祈ることです。それぞれに意味がありますが、現在では「加持祈祷」という文言で使われることが多いように思われます。
また「護摩」とは、サンスクリット語の「ホーマ」に起源をもち、火中に供物を投げ入れて天上にいる神々に捧げる儀式でありました。密教では加持祈祷のための一つの儀式と言えます。ですから、加持祈祷を行う場合にすべて護摩のように炉の中に供物を投じるわけではありません。その密教でいう「護摩」には息災(そくさい)、増益(そうやく)、調伏(ちょうぶく)、敬愛(けいあい)等の種類があります。
護摩は前述した種類に応じてお不動さま、観音さま、お薬師さまなどのご本尊をお招きし、様々な供養を捧げ、その功徳を以って願い主の願い事を達成しようとすることです。行者が護摩の炉に火を点じ、火中に護摩木などの様々な供物を投じて捧げるのが一般的によく見かける護摩であり、これを外護摩と言います。また、行者自身の心の中にある煩悩を仏の智恵の火で焼き、悟りの心を得ようと行うものを内護摩といいます。つづく

グラコム2009年10月号掲載

密教についてC

密教についての四回目です。
皆様は、マンダラという言葉を一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。さて、そのマンダラとは何なのでしょうか。これはサンスクリット語を音写した言葉であると言われています。意味は、本質・中心・真髄を持つものとされています。また、同時に円・丸いという意味も持ち合わせています。密教はインドで成立したと話をしましたが、このマンダラとは、古代インドにさかのぼり、バラモン教やヒンドゥー教の宗教儀礼で、土壇に様々な幾何学模様などを描き、天上の神々を招いて供養し祈願する聖なる空間のことでありました。これが仏教に取り入れられて中国や日本に伝わりました。
さて、日本でマンダラと言われるものはたくさんの種類に分類され、密教だけに使われているものでもありませんが、今回は密教のマンダラについて簡単に説明します。
特徴を並べると、広がりを持った聖なる空間であり、世界や宇宙の縮図。
複数の要素(ほとけ等)と中心を持つ。
ある規則を持って配置され、複数の要素(ほとけ等)の調和がある。
密教で有名なマンダラと言えば、空海が日本に請来した両界曼荼羅(りょうかいまんだら)と呼ばれる視覚的に表現されているものです。「金剛界(こんごうかい)曼荼羅」と「胎蔵(たいぞう)曼荼羅」の二つを指します。「金剛界曼荼羅」は「金剛頂経」、「胎蔵曼荼羅」は「大日経」の密教経典をもとに描かれたものであり、「金剛界曼荼羅」は九つの部分から構成されて、規則のある動きを持って密教の教義と聖なる世界を表したものと言われます。「胎蔵曼荼羅」は十二の部分から構成されて、おおいなる慈悲を表していると言われます。その中には人々の信仰を集めた現世利益のほとけやヒンドゥー教の神々も取り込まれています。つづく

グラコム2009年11月号掲載

禅について

今回からは「禅」についてです。
「禅」とは、古代インドの語のジャーナという言葉を中国語訳したもので「禅那(ぜんな)」からきています。その意味は「精神を一つの対象に集中し、その真の姿を知ろうとすること」という意味があります。まずは「禅」の歴史をひも解いてみましょう。
釈尊(しゃくそん)は菩提樹の樹の下で坐禅を組んで悟りを得たと言われています。長い年月の「苦行」では悟りを得ることができなくて、「中道(ちゅうどう)」とか「空(くう)」いう考え方(なにごとにも極端ではなくこだわらないこと)で悟りを得ることができたのです。その教えが摩訶迦葉(まかかしょう)に伝えられ、その後、インドにおいて二十八祖にあたる菩提達磨(ぼだいだるま)まで伝わり、その菩提達磨が中国に伝え、その後に六祖である慧能(えのう)によって中国的な展開がなされたものが、現在まで日本で伝えられている「禅」の起源といわれています。以前も書きましたが、禅宗という宗派は日本にはありません。日本における「禅」は、曹洞宗・臨済宗・黄檗宗の三つの宗旨が現在に至っています。
さて、悟りを得た釈尊から摩訶迦葉に真理が伝えられたときの話が「拈華微笑(ねんげみしょう)」と言われ、「禅」のもっとも大切な心を伝えたエピソードとして有名です。釈尊の晩年に弟子たちが集まり説法を聞く場がありました。そこで釈尊は一切の言葉を話さず、一本の花を差し出したところ、他の弟子たちは不思議がるばかり。ただ一人、摩訶迦葉だけが微笑み返した。それを見た釈尊は自身の教えようとした悟りの真理は、文字や言葉だけでは完璧に伝えることはできないが、摩訶迦葉だけはそのことと教えを理解してくれた。という話です。「不立文字(ふりゅうもんじ)」「教外別伝(きょうげべつでん)」という言葉で「禅」のもっとも重視されていることがよく表されますが、それは、悟りの真理は文字でも経典でもなく、心から心に伝えられるものという意味であります。つづく

グラコム2009年12月号掲載

禅についてA

「禅」についての二回目です。
悟りの真理は文字でも経典でもなく、心から心に伝えられるものという意味で「不立文字(ふりゅうもんじ)」「教外別伝(きょうげべつでん)」という言葉が「禅」では表現されます。つまり「禅」では、師と弟子が直接人間的に密な関わりを持ちながら教えが伝えられるということであり、師の問いかけに対して弟子がどのような答えや行動をするかを見て教えを理解したか否かを判断し、修行が完成したのかどうかを判断するのです。このことは釈尊以来、今日まで連綿と続いていることだと言われています。
また、「不立文字」「教外別伝」と合わせて「禅」の大切な教えが「直指人心(じきしにんしん)」「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」という言葉でも表されています。それは、自分自身の心そのものをしっかりと見つめ、その中に悟りの心を見出すことです。人間は何かを考えるときに様々なことで思い悩みますが、そのようなことでは悟りを得ることはできなくて、自分の本当の心と向き合って、その中にある仏の心に語りかけ、理解することによってのみ悟りを得られるということだと考えます。
さて、「禅」では「坐禅(ざぜん)」が修行には欠かせません。もともとは仏教が始まる以前からインドにあったものが、釈尊が坐禅をして悟りを得たことから仏教にも取り入れられたと言われています。坐禅には足の組み方で、「吉祥坐(きちじょうざ)」と「降魔坐(ごうまざ)」の二つがあります。「吉祥坐」とは先に左足を右股にのせ、後ろから右足を組みます。「蓮華坐(れんげざ)」とも呼ばれています。また、「降魔坐」はその逆で、先に右足を左股にのせてから左足を組みます。釈尊が悟りを得た時には「吉祥坐」だったことから、悟りを得た者は吉祥坐、修行をする場合は「降魔坐」が基本になります。ですから、奈良の大仏などは当然「吉祥坐」になっています。そんなことを頭の片隅に入れて、各地の仏像をご覧になるのも良いのではないかと思います。つづく
宗教のいろは0912画像