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宗教のいろはタイトル

グラコム2006年1月号掲載

お正月について考えるA「鏡餅」

昨年のお正月には宗教と「お正月」の関わりについて、お話をしましたが、今回はお正月に飾るものの一つである「鏡餅(かがみもち)」についてお話をいたします。鏡餅とはご存じの通り、正月に仏前や神前に捧げる丸くて平たい餅のことです。
この「鏡餅」は神前や仏前に供えますが、鏡は三種の神器(鏡・剣・勾玉(まがたま))の一つでもあり、餅の丸い形が昔の銅鏡(青銅製で、昔は神事によく使われていました)に似ていることからそう呼ばれるようになったようです。
「鏡餅」が現在のように飾られるようになったのは、家庭に床の間が作られるようになった室町時代以降とされています。
武家では床の間に甲冑(かっちゅう)を飾り、その前に「鏡餅」を飾ったと言われています。
その時には、「鏡餅」の上に、熨斗鮑(のしあわび)(現在使われている熨斗の起源と言われています。)、昆布、えび、みかん等を載せてお飾りしていました。
現在では、三方の上に半紙を置き、その上にシダ等を置き、餅を2段に重ね、みかん等を載せて飾るのが一般的ですよね。
熨斗をのせることも良くあると思いますが、先に述べた飾りが、現在もそのまま残っていると考えられます。
さて、一月十一日に「鏡餅」を皆でいただき一家の円満を願う行事が「鏡開き」です。
神様にお供えをしたお餅を頂くということで、神からの祝福を受けようというありがたい行事でもあり、武家社会の風習が一般化しました。
刃物で切るのは切腹を連想させるということで、手で割ったり、木槌で叩いたりして、「切る」ではなく、「開く」と言う言葉を使っているのはそのことに由来します。
元来は一月二十日に行われていたのですが、徳川家光が二十日(慶安四年)に亡くなったことで十一日に変更になったと言われています。今でも二十日に行う地方もあるようです。

グラコム2006年2月号掲載

お彼岸について

皆様もよくご存知の「お彼岸」ですが、「彼岸」はもともと仏教用語で、サンスクリット語のパーラミター。
この音を漢字に当てた「波羅密多(はらみた)」つまり「到彼岸」から来ています。
つまり、我々が住む迷いの多い「此岸(しがん)」から、迷いのない仏の世界に渡ることを目的としたものであり、春分の日と秋分の日を中日として、
前後三日の七日間を言います。その間、寺院等で行われる法会を「彼岸会(ひがんえ)」と言います。
ちなみに、「彼岸」といえば春の彼岸。秋の彼岸は「秋彼岸」もしくは「後の彼岸」というのが本当だそうです。
「彼岸」は、もともと仏教用語から来たものではありますが、「彼岸会」の習慣は日本独特なもので、インドや中国では見られないのです。
日本で最初に「彼岸会」が始まったのは、春分・秋分の日とは関係なく、西暦八百年頃(諸説あり)だと言われています。
その後各地で「彼岸会」の風習が広まった後に、暦にも春・秋の彼岸の日が定められるようになりました。(千八百年代中頃)
また、昭和二十三年には、春分の日は「自然をたたえ、生き物をいつくしむ日」、秋分の日が「祖先をうやまい、亡くなった人をしのぶ日」とされ、春分・秋分の日が「国民の祝日」として定められました。
さて、「お彼岸」には、昔から先祖をうやまい、お墓参りをすると言う風習があります。
またお仏壇にぼた餅やおはぎをお供えして家族で食べるという風習もありますよね。ぼた餅は牡丹餅と書きます。おはぎは御萩です。
牡丹の花は春に咲きますので、春はぼた餅、萩の花は秋に咲くので秋はおはぎと言うそうです。さらに、花のイメージを考えて、ぼた餅はこしあんで、おはぎは粒あんで作るとも言われているようです。ご存知でしたか?
また、春分・秋分の日は、昼と夜の長さが同じ日であり、太陽が真東から昇り、真西に沈むことから、極楽浄土のある西に向かう道しるべになることからも、信仰が広まったと言われています。

グラコム2006年3月号掲載

仏旗(ぶっき)について

それぞれの国には、国旗がありますよね。ある国語辞典では「その国を代表する旗」とあります。仏教にも同じようなものがあるのです。
今回はその旗についてお話をいたします。仏様の旗?とは、写真を見てもらうと分かるように五つの色で構成されています。
皆様も一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。この旗は仏教徒が仏教を開かれたお釈迦様の教えを守り、仏の道を歩んでいくときの大いなる旗印になるものとして、1950年の世界仏教徒会議で「国際仏旗」として採択され、日本でも、1954年の全日本仏教徒会議で決定しています。その仏旗は、六金色旗(ろっこんじきき)とも言われ、青・黄・赤・白・樺(かば)の五色(旗の左から)とその五色が混ざり合った色(旗の一番右)の六色でできています。
それぞれの色の意味は次のように表現されています。(財団法人全日本仏教徒の資料より抜粋)
青…仏様の髪の色で、心乱さず力強く生き抜く力「定根(じょうこん)」をあらわす。
黄…燐然と輝く仏様の身体で、豊かな姿で確固としたゆるぎない精神「金剛(こんごう)」をあらわす。
赤…仏様の情熱、ほとばしる血液の色でおおいなる慈悲の心で人々を救済することが止まることのない働き「精進(しょうじん)」をあらわす。
白…仏様の説教される歯の色で、清純なお心で諸々の悪業や煩悩の苦しみを清める「清浄(せいじょう)」をあらわす。
樺…仏様の聖なる体を包む袈裟(けさ)の色で、あらゆる侮辱や迫害、誘惑などによく耐えて、怒らぬ「忍辱(にんにく)」をあらわす。 ただし、解釈の仕方であるとか、意味については各宗派や各寺院により違いが多少ありますが、 仏教徒として信じる心をひとつの形として表した旗であることは間違いありません。

グラコム2006年4月号掲載

釈迦(しゃか)の教えの原点について@

仏教の原点は釈迦の教えにあります。皆様がご存知の通り、釈迦は紀元前5世紀ごろ(諸説あり)釈迦族の裕福な家庭に生まれながら、29歳で出家し、35歳で悟りを開き、その後、布教活動の旅を続けた人生を送られました。その教えが仏教の根本にあるのです。その悟りの代表的なものが、「四諦(したい)・八正道(はっしょうどう)」と言われるものであり、最初に苦行を共にした五人の仲間に説いたのもこのことであったと言われています。
両方を一度に説明すると長くなるので、今回は「四諦」の説明をいたします。
読んで字のごとく、四諦とは「四つの諦」のことであり、「諦」と言う字の意味するところは、あきらめるという意味もありますが、元来は、つまびらか、明らかにする、物の真実をよく見る、真理、悟りという意味なのです。つまり釈迦が得た悟りの中の四諦とは、苦・集・滅・道の四つの真理のことを言います。それぞれをなるべく分かりやすく書いてみます。
苦諦(くたい)とは、人間はこの世が「苦」であるととらえる存在であるという真理であり「苦」を仏教では「四苦八苦」という言葉でも表しています。(長くなるので、次の機会に説明します。)
集諦(じったい)とは、その「苦」は、人間の尽きない煩悩(ぼんのう)により「集」、つまり招き集まるという真理であります。
滅諦(めったい)とは、その「苦」が、なくなった状態。煩悩を「滅」することにより、「苦」がなくなり「涅槃(ねはん)」の状態になることを言います。
道諦(どうたい)とは、真理をしっかりととらえ、悟りの境地を生きるための正しい道を実践することであり、この実践方法として「八正道」が説かれています。 「四諦」とは、人間が生きていく中での迷いの現実と原因を示し、悟りの結果とその方法を示したものであります。

グラコム2006年5月号掲載

釈迦(しゃか)の教えの原点についてA

前回は釈迦が悟った「四諦(したい)」の中で、人間はこの世が「苦」であるととらえる存在であるという真理の「苦諦(くたい)」を説明しました。
その中で「苦」を仏教では「四苦八苦」という言葉で表しています。とお話しました。皆様もご存知の通り、「今日のテストには四苦八苦したよ。」「今日は仕事量が多くて終わらせるのに四苦八苦したよ。」等でお使いになられていると思いますが、もともとはどのような意味かご存知でしたか?四苦とは、生・老・病・死の四つです。それがなぜ「苦」なのかというと、人間として生きているときに思うことに矛盾するからであります。
いつまでも若く、生きていたいと思ってもやがては老いて死んでいくのです。病気になりたくないと思っていてもなってしまうこともあります。
つまり釈迦は、人間は生まれたときから生きていくことが「苦」だととらえる存在であると言っているのです。
そのことに加えて、四つの苦があるといっています。その内容は、「愛別離苦(あいべつりく)」…愛する者とも別れなくてはならない苦。
「怨憎会苦(おんぞうえく)」…いやな者とも会わざるを得ない苦。「求不得苦(ぐふとくく)」…求めても得られないこともあるという苦。
「五蘊盛苦(ごおんじょうく)」…人間が生きるときに感じる五蘊に振り回される苦。(「五蘊(ごうん)」とは、名前は皆様もご存知のお経「般若心経」の中に出てきます。その意味は、色、受、想、行、識と言い、人間が生きていくときに感じる五つの物質、精神の感覚を指していると言われています。)
ここまで話をしてきた仏教で言う「苦」の意味は「思うようにならない苦しみ」のことを言うようであります。
今回は、四苦八苦についてお話をしましたので「苦」のことばかりが強調されていますが、人間は苦しみを乗り越えることで、喜びを得られるのです。 人生は苦あれば楽あり。皆様一人ひとりの素晴らしい人生を精一杯生きていただきたいと思います。

グラコム2006年6月号掲載

釈迦(しゃか)の教えの原点についてB

前々回の「四諦(したい)」の実践方法として釈迦は「八正道」を説き、それらを日々実践することが、煩悩から逃れ、苦を滅する手段であると言ったのです。(つまり四諦の中の「道諦(どうたい)」のことでもあります。)八正道とは「正見(しょうけん)」「正思惟(しょうしゆい)」「正語(しょうご)」「正業(しょうごう)」「正命(しょうみょう)」「正精進(しょうしょうじん)」
「正念(しょうねん)」「正定(しょうじょう)」の八つの行いから成り、これらの意味を簡単に書き記すと、「正見(しょうけん)」とは、正しく物事を見ること。
この「正見」が八正道の基本であり、他の七つはどのようにすればこの「正見」に達することができるかを、さらに詳しく示したものである。
もう少し詳しく説明すれば「正見」は、この世の中の無常(この世の中の一切のものは永遠不滅のものはないということ。人生のはかなさ。)の事実を知り、物事の真実を積極的に追及することによって、欲望や執着によって心に感じることを価値のないものと、しりぞけることであると言えるでしょう。
「正思惟(しょうしゆい)」とは、正しく物事を考えること。
「正思惟(しょうしゆい)」とは、正しく物事を話す。簡単に言うと、自他共に喜ぶことができる言葉や優しい言葉で話すということです。
「正業(しょうごう)」とは、正しい行いをする、邪悪な行いをしないこと。
「正命(しょうみょう)」とは、正しい生き方をすること。
「正精進(しょうしょうじん)」とは、正しい努力をする。智慧を用いて理想を実現するための懸命な努力を怠らないこと。
「正念(しょうねん)」とは、正しい道を思い念ずること。
「正定(しょうじょう)」とは、心静かに精神を保ち、正しく心を整えること。
さて、皆様方はどのくらい実践できますか?なかなかできないことだと思いますが、人間、努力が大切ではないでしょうか。

グラコム2006年7月号掲載

真言宗の教えについて@

以前、それぞれの宗派を開いた宗祖のお話をしました。今月からは、北見地方にあるそれぞれの宗派の教えのことについて簡単にお話をします。
さて、最初は真言宗より始めたいと思います。真言宗は真言密教とも言われ、「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」という心が一番大事な教えです。
これは、顕教(けんきょう)とは違い、正しい修行をつめば、誰でもこの身のままで仏になれるということです。どういうことなのか、少し紐解いてみましょう。
真言密教の密教とは何なのでしょう。弘法大師空海の著書である「弁顕密二経論(べんけんみつにきょうろん)」によれば、仏教は、ある側面から分けると2つになる。
一つは、密教。もう一つは顕教である。顕教とは、衆生救済のために仏が生身の人間となって現れた化身である釈尊が説かれたものであり、人間の意識(五感)で理解出来る教えである。しかし密教は、永遠の真理そのものである仏の大日如来が直接ありのままに説いた教えであり、大日如来の悟りに世界そのものであり、人間の意識(五感)で感じられるものだけではなく、その奥にある真理の世界までもが表現されている教えである。
そして密教とは、秘密仏教を意味し、その秘密は二つです。一つは「衆生秘密」であり、私たち人間は仏になれる仏性を持っているのに、そのことに気がつかず自らの本性で自分を隠してしまっていることです。もう一つは「如来秘密」を言い、大日如来は仏の世界の言葉で表現するので、その内容は私たち人間には理解しがたいということです。
簡単に言うと密教は、「秘密」である教えを理解するために一心に修行をすることにより「即身成仏」し、宇宙の真理と出会うことができる教えなのです。
また弘法大師は、「即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)」の中で、「六大無碍(ろくだいむげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり四種曼荼(ししゅまんだ)おのおの離れず三密加持(さんみつかじ)すれば即疾(そくしつ)に顕わる重々帯網(じゅうじゅうたいもう)なるを即身(そくしん)と名づく」と述べています。
この四行に「即身成仏」の真髄が言い表されているといっても過言ではないので、どのようなことなのかを次回に考えてみます。(筆者は、宗派の専門家とは言えませんので、詳しくは、菩堤寺のご住職にお聞きください。素晴らしい人ばかりですので、わかりやすく教えてくださると思います。)

グラコム2006年8月号掲載

真言宗の教えについてA

前回は、真言宗は「即身成仏」という心が一番大事な教えです。ということでそのことを紐解いてきたところでしたね。そして、「即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)」の中の短い文を考えるところでつづきになりました。
密教では、宇宙に存在するあらゆるものを次の三つの側面から成り立っているととらえています。「体大(たいだい)…ものそのもののこと」「相大(そうだい)…ものの姿、形のこと」「用大(ゆうだい)…ものがもつ働きや作用のこと」の三つです。前回の四行の文章のうち三行もこのことを説明しています。
一つ目の「体大」についてですが、宇宙は「地・水・火・風・空・識」の六つの構成要素「六大体大」から成り立ち、
それは五つの物質的構成要素「地・水・火・風・空」と「識」という一つの精神的構成要素なのです。
つまり、宇宙は、六つの構成要素がお互いにバランスを取り合って存在していると考えています。(六大無碍(ろくだいむげ)にして常に瑜伽(ゆが)なりの意。)
二つ目の「相大」ですが、密教では宇宙には四つの面があり、四種類の「曼荼羅(まんだら)」で表現しているのですが、どの曼荼羅も宇宙を表現しているものであり、
それぞれは離して考えることができないものなので四曼不離(しまんふり)であるといっています。(四種曼荼(ししゅまんだ)おのおの離れずの意。)
三つ目の「用大」ですが、仏教でいう人間の「三業(さんごう)‥身・口(言葉)・意(心)」のことをいい、仏の三業はわれわれ人間には計り知れないほど奥深いので「三密」であり、
「三密加持」とは、手に印を結び、口(言葉)に真言を唱え、意(心)に本尊を念じて祈ることなのです。
「三密加持」すれば、宇宙と一体になり、人間が持つ力では考えられないような不思議な力があらわれるということです。(三密加持(さんみつかじ)すれば即疾(そくしつ)に顕わるの意。)
そして最後の行では、衆生と仏が一体となって溶け合うことが「即身」だと言っています。(重々帝網(じゅうじゅうたいもう)なるを即身(そくしん)と名づくの意。)
たいへん難しい教えですね。でも、少しはご理解いただけたのではないでしょうか。
密教の教えは、宇宙の真理と出会うために、六大無碍、四曼不離の道理をしっかりと観察し、「三密加持」を行じることにより「即身成仏」ができ、衆生が持つ力では考えられないような不思議な力があらわれるということではないかと思います。
(筆者は、宗派の専門家とは言えませんので、詳しくは、菩堤寺のご住職にお聞きください。素晴らしい人ばかりですので、わかりやすく教えてくださると思います。)

グラコム2006年9月号掲載

浄土宗の教えについて@

今回から浄土宗の教えについて簡単に説明いたします。浄土宗は、法然上人が開祖であり「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」という心が一番大事な教えです。
そして、前回まで紹介した真言宗では「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」が大切だと話しましたが、そのことを達成するために仏教徒は、戒(かい)・定(じょう)・慧(え)といわれる様々な修行が不可欠でありました。
では、修行が困難であったり、難しい教えを理解するのが難しかったりする人々はどうなるのでしょうか。法然上人は善導(ぜんどう)大師の「観経の疏(かんぎょうのしょ)」の中から〈現代訳‥常に南無阿弥陀仏とお名号を称え離れないのが仏道修行する者の勤めだ。弥陀の「本願」に叶う道だから〉の文を発見され、身分の上下、貧富の差、老若男女などの区別なく誰もが救われる道だと確信したのです。
前述の「本願」とは何でしょう。それには二つあり、総願と別願t言われています。総願は全ての仏の願いに共通するもので、四弘誓願(しぐせいがん)(※1)等があげられます。
別願は、それぞれの諸仏固有のもので、その中で阿弥陀仏に関するものは、修行していたときの名前である法蔵菩薩が長い間の修行により四十八の請願が成就し、極楽浄土と言う国ができたことが浄土三部経の「無量寿経」に述べられています。その中の第十八番目に「心から信じて私の国に生まれたいと願うならば、ただ念仏をとなえること(実際はもっと深い内容です)」と言う念仏往生の願いが見られ、阿弥陀仏の願いの要と言われています。
※1…四弘誓願(しぐせいがん)仏道を目指すものが最初に立てる四つの請願のことを言い、簡単に言い表すと、
「衆生無辺誓願度」迷いや苦しみに沈んでいる一切衆生を救済しようと誓うこと。
「煩悩無返誓願断」一切の煩悩を断じ尽くそうと誓うこと。
「法門無尽誓願知」仏の教えをすべて学び知ろうと誓うこと。
「無上菩堤誓願証」仏道を行じて無上の悟りを証得しようと誓うこと。
(筆者は、宗派の専門家とは言えませんので、詳しくは、菩堤寺のご住職にお聞きください。素晴らしい人ばかりですので、わかりやすく教えてくださると思います。)

グラコム2006年10月号掲載

浄土宗の教えについてA

浄土宗の教えのつづきです。浄土宗の宗歌には「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむる人のこころにぞすむ」という一首があります。上の句は阿弥陀仏の本願の心を読み、下の句はその本願の力にすがって救われようとする衆生の信心を表しているといわれています。その詞書には「阿弥陀仏の光明は全世界をあまねく照らし、どんな人をも救い取る」とあり、大きな慈悲のみ心が歌われています。しかし、月が照り映えていても見ようとしない人には、阿弥陀仏の光明にも気がつかないでしょうし、逆に月のない夜でも心に月を思い浮かべて月光を宿すこともできると言えるでしょう。
さて、法然上人は『選択(せんちゃく)本願念仏集』の中で仏教全体を聖道門と浄土門という2つに大別しています。
聖道門とは、現実の人間社会において難しい修行をして迷いを立ち、聖(ひじり)の位に入って悟りを得ようというものであり、その説く道理は深遠ですが、私たち凡夫が理解するのはたいへん難しいと言えます。
一方、浄土門は阿弥陀仏の本願に誓われた念仏を唱えることによって極楽浄土に往生し、輪廻転生(りんねてんしょう)から抜け出ることを目的とするものです。
つまり、ただ南無阿弥陀仏を口に称えるだけで私たち凡夫の誰もが実践できる実践行であると言えます。そのことからも分かるとおり、法然上人は誰もが分け隔てなく救われる教えだと確信し、その教えを広めました。
また、法然上人は、ご遺訓である『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』の中でも「ただ往生極楽の為には、なむあみだぶつと申して疑いなく。
往生するぞと思い取りて申す他には、別の子細(しさい)候わず」とあり、最後には「ただ一向に念仏すべし」と締めくくっています。
(筆者は、宗派の専門家とは言えませんので、詳しくは、菩堤寺のご住職にお聞きください。素晴らしい人ばかりですので、わかりやすく教えてくださると思います。)

グラコム2006年11月号掲載

浄土真宗の教えについて@

今回からは、浄土真宗の教えについて簡単にお話をいたします。親鸞聖人が宗祖である浄土真宗は、阿弥陀仏の本願によって導かれ、生かされているという【絶対他力】の考えにもとづいています。
その【絶対他力】とは何なのでしょう。前回までの法然上人を宗祖とする浄土宗では「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」つまり、ただひたすら念仏を唱えること。という一つの行いをすることだけで、誰もが極楽浄土に往生できるとされました。このことは、それ以前の日本で進化した仏教が、様々な修行を必要とし、その修行や実践を成しえた人にしか成仏の道が開かれなかったことに対して、一般大衆に対して開かれた教えでありました。しかし、法然上人の教えも念仏を唱えることは自力で行わなくてはなりませんでした。
それに対し親鸞聖人は、「念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力を離れたるゆゑに…。」と(※1)歎異抄(たんにしょう)の第8章に書かれています。
つまり、念仏は、南無阿弥陀仏と唱える人にとって行でもなく善でもない。自力で行なうのではないので行ではなく、自力で行なう善根(よい報いを招くもとになる行為)でもないので善でもない。
念仏は唱える人の口から出てきてはいるが、阿弥陀仏のものであり、自分(自力)で唱えているのではないのである…。ということに表されるとおり、念仏さえも阿弥陀仏の本願(大きな慈悲の心)で行なわれているものだという考えなのです。阿弥陀とは梵語(ぼんご)で、その意味は【無量】ということです。
浄土真宗の教えは、その阿弥陀仏、すなわち無量の力をもった真理の仏が、どのような人間もその大きな慈悲の心で包み込み、極楽浄土に往生することができるといった教えなのです。
(※1)歎異抄(たんにしょう)親鸞聖人の門弟である唯円(ゆいえん)がまとめたといわれている書物です。
親鸞入滅後、師である親鸞の教えがその趣旨と異なって理解されている現状を歎き、師の教えを改めて明らかにしたいという願いで書かれたものです。 (筆者は、宗派の専門家とは言えませんので、詳しくは、菩堤寺のご住職にお聞きください。素晴らしい人ばかりですので、わかりやすく教えてくださると思います。)

グラコム2006年12月号掲載

浄土真宗の教えについてA

浄土真宗の教えのつづきです。歎異抄(たんにしょう)に出てくる一説で、誰にでも良く知られている有名なものから親鸞聖人の教えをひも解いてみましょう。
親鸞聖人の説く浄土真宗の教えを的確に表現した有名な言葉に、「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや…」(歎異抄 第三章)の一説があります。
『悪人』こそが救われるという【悪人正機】説です。どのようなことをお話しているのかご存知でしたか。
まず、ここでいう『悪人』とは、現在一般的にいわれている、法律や道徳に反する悪人ではなく、人間の持つ煩悩から自分の力ではどうしても抜け出すことができない一般大衆のことをいいます。
その意味は、善人ですら往生をとげるのです。まして、悪人はなおさらのことでしょう。自分で善行功徳を積んで往生しようと願う善人は、阿弥陀仏にすべてをおまかせしようとしていないので、阿弥陀仏の本願力におまかせするのであれば、真実の悟りの境地であるお浄土に往生させていただくことができるのです。また、たくさんの煩悩を持つ人間は、どんなに修行をしても生死の迷いから離れられないのです。
そのような人たちを憐れんで、助けようという願いをされたのが阿弥陀仏ですから、阿弥陀仏にすべてをお任せするのが浄土往生の正しい道であって、自力の善行に頼む善人よりも、本願に頼み、まかせきっている悪人こそが阿弥陀仏の心に叶うのです。それゆえ、善人ですら往生をとげるのですという表現になっていて、まして悪人はなおさらのことでしょうと、親鸞聖人は仰せになられた。と伝えられているのです。
ここでも、【絶対他力】が親鸞聖人の教えの根本であり、その教えが仏教をよりいっそう一般大衆中心の宗教として確立していったゆえんであります。
また、皆様もよくご存知の浄土真宗中興の祖といわれる本願寺八世の蓮如上人(れんにょしょうにん)は、仏前勤行(ぶつぜんごんぎょう)を「正信偈・和讃(しょうしんげ・わさん)」として、門徒全員の日課とし、自身は浄土真宗の教えを手紙という形で分かりやすく表現した『御文章(ごぶんしょう)もしくは御文(おふみ)』をまとめ、たくさんの一般大衆に浄土真宗という教えを広めたのです。
(筆者は、宗派の専門家とは言えませんので、詳しくは、菩堤寺のご住職にお聞きください。素晴らしい人ばかりですので、わかりやすく教えてくださると思います。)