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宗教のいろはタイトル

グラコム2005年1月号掲載

お香の歴史

今回は、仏教と大変関係が深く、その伝来とともに伝わったと言われています「お香」について、その歴史を少しではありますがひも解いてみましょう。
「日本書紀」には、595年淡路島に香木が漂着したと記されていいますが、その50年ほど前に百済(くだら)から日本に仏教が伝えられたときに香木も仏像や経典とともに初めてもたらもたらされたのではないかと考えられています。この頃は、お香はおもに仏のための供香(そなえこう)として使われていました。
その後、奈良時代後期には、仏のための供香としてだけではなく、貴族たちによって住居に香を薫く(たく)習慣が生まれました。
これは「空薫(そらだき)」と呼ばれ、仏の香と区別して薫物(たきもの)が用いられました。薫物とは種々の漢薬香料の粉末を複雑に調合し、蜂蜜や甘葛(あまづら)などで丸薬状に練り合わせたもの。これが平安貴族たちの嗜み(たしなみ)として衣装にも薫かれるようになっていきました。その後鎌倉時代になって武士が台頭してくると、積極的な大陸との交易によって、香木が豊富に入手できるようになると薫物ではなく、ひとつひとつの木の香りを聞くことが流行しました。それが、それぞれの味わいの違う香りを愉しみ、その異同を当てるという競技「組香(くみこう)」と呼ばれるものに発展しました。
そして、香を聞くための形式や様式が整えられ、香は芸道として発展していきました。江戸時代になると経済力を持った町人にも香が広がり、庶民が日常に使う袖香炉や香枕など、身だしなみとしての香道具もさまざまに工夫されました。そして、香を鑑賞するための種々の作法が整えられ、遊戯の香が「道」として確率されていきます。
明治維新で一次的に、徹底的な西洋化が推し進められた結果として茶や香は衰退しましたが、欧米人による和文化の発見とあいまって改めて日本の伝統文化への見直し機運が高まり、茶や香は「芸道」として大成していきました。そして現在、「におい」という嗅覚情報は抽象的できわめて曖昧でありますが、その曖昧性に今また関心が寄せられ、日本古来の「香」が見直されてきています。

グラコム2005年2月号掲載

真言宗の宗祖「空海(くうかい)」

今回から各宗派の宗祖についてのお話をいたします。初回は「空海」です。
空海は宝亀五(七七四)年讃岐国多度(香川県善通寺市)に生まれ、その後さまざまな学問を学びましたが飽き足らず、仏門に志しました。四国の阿波の大龍ヶ嶽や土佐の室戸岬で厳しい修行に打ち込み、また奈良の諸寺で仏教を学びました。延暦一六(七九七)年には『三教指帰(さんごうしいき)』を著し、儒・仏・道の三教の優劣を論じています。
その後、延暦二三(八〇四)年、苦難の末、留学僧として唐(中国)に渡り、当時の都・長安(今の西安)の青龍寺の恵果(けいか)に学び、金剛・胎蔵・伝法の灌頂(かんじょう)を受け、秘法を授かり、密教のすべてを学びました。このときに授けられた灌頂が「遍照金剛(へんじょうこんごう)」(大日如来の蜜号)です。(お唱えに出てきますよね、「南無大師遍照金剛…」って。これは、皆様もよく知っていると思います。)
大同元(八〇六)年に帰国し、中国密教を日本に伝え、さらに独自の考え方を進めて真言宗を開き、多くの弟子を育てるとともに、日本最初の大学「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を創設して一般の教育にも努めました。
真言宗は釈尊や諸仏によって説き顕された顕教(けんきょう)ではなく、永遠不変の全宇宙そのものである大日如来(だいにちにょらい)の説いた奥深い教え、密教をもっとも優れたものであるとします。印を結び(身密)、真言を唱え(口密)、仏を念じる(意密)という三密修行によって、仏と一体になることができるという教えなのです。
空海はその後も幅広い活動を展開し、承知二(八三五)年、六十二歳で高野山に寂しましたが、のちに醍醐天皇から弘法大師という諡号(しごう)を下賜され、今日まで広く宗派を超えてさまざまな形で信仰を集めています。 北見市で真言宗のお寺というと、真言宗智山派の真隆寺があります。

グラコム2005年3月号掲載

浄土宗の宗祖「法然(ほうねん)」

各宗派の宗祖についてのお話の二回目は「法然」です。
法然は長承二(一一三三)年、美作(みまさか)国稲岡荘(岡山県久米南町)に生まれ、幼名は勢至丸(せいしまる)といいました。九歳のときに父が夜討ちに合い、非業の死をとげたあろ、父の遺言で出家を決意。十三歳のときに比叡山にのぼり、十五歳で出家受戒したあと、五年ほど修行を重ねましたが、師のことばに失望し、黒谷の叡空(えいくう)に教えを求めました。この説きから法然房源空(ほうねんぼうげんくう)を名乗り、5048巻にものぼる「一切経」を五度も読破したそうです。その後二十数年の歳月を経て、善導(ぜんどう)大師の「観経の疏(かんぎょうのしょ)」の中から〈現代訳…常に南無阿弥陀仏とお名号を称え離れないのが仏道修行する者の勤めだ。弥陀の本願に叶う道だから〉の文を発見され、法然が求め続けていたものにたどり着いたのです。
すなわち“煩悩は煩悩のままに、悩めるものは悩めるままに念仏すれば、仏はあまねく人々を救われると誓われているのだからそれだけでよい。「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」こそ身分の上下、貧富の差、老若男女などの区別をこえて、すべての人が救われる道だ”と法然はとらえたのでした。
かくして法然は、比叡山をおりて教徒西山をへて東山吉水に移り、吉水草庵(よしみずそうあん)(安養寺)を本拠として、誰へだてなく布教伝道活動をしました。その中で「選択(せんちゃく)本願念仏集」を著しています。そのため法然は民衆仏教ともいわれる鎌倉仏教の先駆者となりました。
しかし、専修念仏があまりにも広がったため、比叡山からの糾弾が激しく、法然は七十五歳にして讃岐に流罪とされてしまいました。その後、赦免されて京都に戻りましたが、建暦二(一二一二)年、八十歳で入寂しました。
北見市で浄土宗のお寺というと、鎮西派の明照寺があります。

グラコム2005年4月号掲載

浄土真宗の宗祖「親鸞(しんらん)」

各宗派の宗祖についてのお話の三回目は「親鸞」です。
親鸞は、一一七三(承安一)年、京都・日野の里にて、貴族の家の生まれであるといわれています。九歳で青蓮院(しょうれんいん)の慈円(じえん)のもとで出家し、比叡山で二十九歳までの二十年間修行したと伝えられていますが、生まれの育ちの本当に確かなものはありません。
比叡山には親鸞が求めるものはなく、山を降り、京都六角堂に百日間の参籠(さんろう)をしました。その終わりのころに、夢の中で、聖徳太子からお言葉を受け、東山吉水で専修念仏(せんじゅねんぶつ)を広めていた法然上人のもとに赴きました。その後、比叡山からの激しい糾弾に会い、法然上人が讃岐に流罪となるのと同時に、親鸞も越後(新潟)に流されたのでした。4年後に流罪が解かれた後には、京都ではなく関東へ向かい、常陸(ひたち)(茨城)を中心に積極的に布教活動をしました。そのころ親鸞は、『教行信証』を著しています。全部で六巻。絶対他力の念仏往生の信仰を確率するためのものであり、阿弥陀如来の本願による衆生救済の普遍性を説いています。
また同時に、親鸞は念仏の恩恵に浴していない人々へも真剣に布教しました。そのように積極的にどんな人にも布教活動を展開してきた親鸞ではありますが、念仏者が増えるにつれ、様々な妨害や弾圧があり、関東の地を離れなければなりませんでした。その後、親鸞は京都に移り、亡くなるまでの間は精力的に書物を書き、関東の門弟たちの求めに応じて、手紙で教えを説き続けました。そして九十歳の一二六三(弘長二)年十一月二十八日、末娘の覚信尼(かくしんに)にもとられて生涯を終えられました。
北見市で浄土真宗のお寺というと、西本願寺派の本覚寺、本勝寺。また大谷派の聖光寺、聖徳寺、乗光寺、常念寺。興正派の弘正寺、常善寺、大真寺。があります。(五十音順)

グラコム2005年5月号掲載

曹洞宗の宗祖「道元(どうげん)と瑩山(けいざん)」

各宗派の宗祖についてのお話の四回目は「道元と瑩山」です。
曹洞宗は道元と瑩山の二人を宗祖とし、道元を高祖、瑩山を太祖といい、大本山は福井の永平寺と鶴見の總持寺(そうじじ)があります。
道元は正治二(一二〇〇)年、京都に生まれました。幼い頃は何不自由なく暮らしていましたが、十三歳の時に貴族の道を捨て、仏門に入りました。
ところが当時の比叡山に道元が求めるものはなく、山を降りて各地の寺で修行に励み、貞応二(一二二二)年、宋(中国)に渡り、天童山で如浄(にょじょう)と出会い、悟りを得て帰国しました。
帰国するとさっそく立教開宗宣言の書とも言える『普勧座禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著しその考えを広めました。
また、寛元元(一二四三)年には、越前(福井県)に移り、翌年栄平寺(建立当初は大仏寺)を開き、禅の教えを深めました。代表的な『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を著し、その教えは、近代・現代の思想にも影響を与えています。建長四(一二五二)年病気療養のため京都に戻りましたが、翌年五十四歳で寂しました。また、瑩山は道元から数えて四代目の弟子になります。
越前に生まれ、母は熱心な観音信仰の信者だったこともあり、幼くして永平寺に参じ、十三歳のときに道元の弟子の懐奘(えじょう)のもとで得度し、各地で修行を重ねたたくさんの優れた弟子を排出しました。そして、元享元(一三二一)年、能登(石川県)に總持寺を開きました。瑩山は外に向かって力強く教化を拡げていく能力に抜きん出ていたことから、曹洞宗は全国へと爆発的に広がっていきました。ここに永平寺と總持寺を二大本山とする曹洞宗の基礎ができたわけです。
その後、明治時代に總持寺は火災にあって消失してしまったことから、鶴見の現在地に移転し再建されました。 北見市で曹洞宗のお寺というと、高沢寺、高台寺、天恵寺、白麟寺。があります。(五十音順)

グラコム2005年6月号掲載

日蓮宗の宗祖「日蓮(にちれん)」

各宗派の宗祖についてのお話の五回目は「日蓮」です。
日蓮宗は日蓮聖人を宗祖とし、総本山は山梨県にある身延山久遠寺(くおんじ)であります。
日蓮は貞応元(一二二二)年、安房国東条郷(現在の千葉県安房群)に生まれました。十二歳で天台宗清澄寺(せいちょうじ)に入り、十六歳で出家、是聖房連長(ぜしょうぼうれんちょう)を名乗り、その後京都をはじめとして各地において遊学され、『』法華経が拠りどころとする唯一の経典であると確信しました。
建長五(一二五三)年四月二十八日、清澄寺のある清澄山の旭が森において「南無妙法蓮華経」を初めて唱えて立教開宗の宣言をし、同時に名前を日蓮と改名しました。日蓮、三十二歳のときのことです。その後日蓮聖人は『法華経』だけが唯一の教えであると説き、他宗を強烈に批判したために他宗信者であった地頭の東条景信によって東条の地を追われ、鎌倉の松葉谷(まつばがやつ)に草案を構えました。
このころから世の中は天災、飢餓、疫病、戦乱等が相次ぎ、まさに末法の世の様相を呈していたため、このことを憂い文応元(一二六〇)年「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」をまとめ、前執権であった北條時頼に示しましたが受け入れることはありませんでした。
その後、さらに他宗を強烈に批判しながらの布教活動に対して数々の法難を受けながらも力強く活動を行いました。晩年の九年間を身延山に移り、「撰時抄(せんじしょう)」や亡き師の道善房を偲んで「報恩抄(ほうおんしょう)」などを著し、門弟を指導することで過ごしました。
弘安五(一二八二)年、病のため身延山をおり常陸国に向かいましたが、病が重くなり、同年一〇月一三日、武蔵国池上(現在の東京都大田区)にて、六十一歳で没しました。 北見市で日蓮宗のお寺というと、学法寺、妙秀寺があります。(五十音順)

グラコム2005年7月号掲載

ろうそく(蝋燭)のお話

各宗派の宗祖についてのお話がひと段落しました。今月はろうそく(蝋燭)のお話をしたいと思います。皆様はいつも何気なく使っているろうそくですが、その歴史などを紐解いてみたいと思います。
紙や糸を撚ったものを芯とし、パラフィン蝋(ろう)・櫨蝋(はぜろう)・蜜蝋(みつろう)などを燃焼させるものをろうそくといっています。
世界的に見ると、古代エジプト・ギリシャ・ローマ時代からろうそくが使われ、中国では前漢時代の遺跡から燭台(しょくだい)が発掘されたことから、この時代にアシ(植物)を中心として布を巻いたろうそくが使われていたようです。また、現在よく使用されているろうそくは、 パラフィンを材料とし、木綿糸をよった芯を使っています。このろうそくは、一八五年にイギリスで初めて製造され、石油から精製されるパラフィンを材料とすることにより、ろうそくの量産と低価格化を可能にしました。さて、日本では奈良時代から寺院や宮廷で蜜ろうそくが使われていました。その後、蜜ろうそくに加えて、イボタ蝋やヤマウルシを使用したろうそくも中国から輸入されるようになりました。当時、ろうそくは高級輸入品であり、一般に使われるものではなく、日常は松脂(まつやに)ろうそくが主な灯火であった。この松脂ろうそくは農村部で明治初期まで使われていました。
日本でろうそくの製造が本格的に行われるようになったのは江戸時代以降であり、櫨(はぜ)や漆(うるし)の実を蒸して絞って採取された木ろう(脂)を材料とする木ろうそくが主に作られました。明治時代になると現在主に使われているパラフィンやステアリンを原材料とする洋ローソクが登場し、一般家庭の生活の中にもろうそくが広く普及しました。
現在、神仏用ろうそくとしてはパラフィンを主要材料とする洋ローソクのほか、櫨蝋(はぜろう)や糠蝋(ぬかろう)を材料とする和ろうそく、古代よりろうそくとして使われてきた蜜蝋(むつろう)を材料とする蜜ろうそくなどが使われています。儀式の時には金色・銀色・朱色に塗られて使われることもあります。

グラコム2005年8月号掲載

盆提灯のお話

8月といえば北見地域は、ほとんどがお盆の季節です。ご存知の通り、お盆や『盂蘭盆会(うらぼんえ)』といい十三日から十六日までの期間を指します。北海道ではあまり見られませんが、お盆には、十三日の夕方までにお墓参りや仏壇の掃除をし、精霊棚を作ってお供え物をあげます。迎え火をして、僧侶に棚経を上げてもらいます。精霊はきゅうりの馬でやってきて、なすの牛に乗って帰ると言い伝えられているようです。そして十六日には送り火を焚き精霊を送り出す。という行事の中で、盆提灯は「故人の霊が道に迷わないように灯す」といういわれがあり、ご親戚や縁者がこれを贈るという習慣があります。今回は、その盆提灯について簡単に触れてみたいと思います。
盆提灯に限らず、提灯については、書物の記載でもっとも古いとされるものは、応徳二(一〇八五)年と言われています。高級であったため、江戸時代以前は上層階級にのみ使われていました。庶民に一般的に使われるようになったのは、ローソクが普及し始めた江戸時代以降のようです。
また、江戸時代中期から、お盆に提灯が用いられるようになったようです。
さて、盆提灯の産地で有名なところは、岐阜県と福岡県八女市です。それぞれ、岐阜提灯・八女提灯と言われています。岐阜は昔から良質の和紙と竹の産地として知られており(美濃の国)、そのことから提灯が作られるようになったようです。岐阜提灯は十六世紀頃に始まり、江戸時代には徳川家に献上したことや、明治天皇に岐阜の主要産品のひとつとして目にとまったことから全国的に有名になりました。また、八女提灯は、文化十三(一八一三)年頃に始まったと伝えられています。生産量が多く、広く世界にも出荷されています。
盆提灯の形にはたくさんありますが、吊り下げる形の御所提灯・御殿丸・住吉等、また置く形として大内行灯(あんどん)・開店行灯等があります。それぞれの形で家紋を入れた提灯があります。これは「故人の霊が迷わずその家に帰ってこられる」ようにと言う事で、盆提灯として使われ始めたころに、迎え火として用いられていました。

グラコム2005年9月号掲載

お香の豆知識

お香の歴史についてはお話をしましたが、今回はお香の原料やその種類等についてのお話をいたします。
お香の原料となる香料には、大きく分けて3つの分類があります。香木・草根木皮の香料・動物性の香料であります。香木とは、伽羅(きゃら)・沈香(じんこう)・白檀(びゃくだん)など、草根木皮の香料には、桂皮(けいひ)・丁子(ちょうじ)・大茴香(だいういきょう)・安息香(あんそくこう)・竜脳(りゅうのう)・乳香(にゅうこう)等があります。また、動物性の香料では、竜涎香(りゅぜんこう)(マッコウクジラより採れる)・麝香(じゃこう)(チベット高原に生息するジャコウ鹿より採れる)・貝香(かいこう)等がありますが、現在は、動物保護の観点から竜涎香・麝香はほとんど使いません。
お香と一口に言っても様々な種類があります。もっとも良く知られ、お香の消費量の90%以上を占めているのがお線香です。
お線香は基材として椨(たぶ)の木の皮が使われます。その他に香料としてあげた材料を混ぜて作ります。その時に難しいのは、原料の配合比率や水分量の微妙な加減によって曲がったり、点火してもすぐに消えてしまったり、折れやすかったりすることです。粉末の材料を練り込み、形をつくり乾燥させて仕上げます。お線香を箱から取り出すときには注意しないと折れてしまいますよね。製作にはたいへん神経をつかい熟練の技術を要します。
その他に焼香(しょうこう)、いろいろな香料を小さく刻んだもの)。(お通夜で焼香といえばこれを用います。)塗香(ずこう)、もっとも粒子の細かいお香です。清め香とも言われます。抹香(まっこう)、細かい粉末のお香で古くは仏塔や仏像などに散布していました。そのほかに練香、印香、匂い袋等様々な種類があります。
お香には十の徳があるといわれています。忙しい現代の生活の中で、お香の香りでちょっと『ひといき』してみてはいかがですか。

グラコム2005年10月号掲載

神道の教えと歴史についてB

神道は、仏教が伝来したときにその存在が意識され始めました。それから様々な宗教のなかで体系されるようになっていきました。
仏教の伝来した五百年代後半には、当時の有力な氏族であった物部氏の「排仏(はいぶつ)派」と蘇我氏の「崇仏(すうぶつ)派」に分かれ政治的な争いが起きたようです。排仏派は日本の神々を大切にする立場で、崇仏派は仏教を国づくりの基盤として考えていました。
その後、最澄・空海の時代には仏教が本格的に隆盛しましたが、最澄(さいちょう)は比叡山を守護する日枝の神を大切にし、空海(くうかい)も高野山を開くにあたって、やはり土地の神を大切にしていました。最澄も空海も土地に根付く神々を仰ぐことで仏教の隆盛を願っていたようです。
つまり、その教えの精神の中には、神と仏の習合ということがあったようです。
平安時代になると古くから根付いていた神々の信仰と仏教が結びつき、本地垂迹(ほんじすいじゃく)という考え方が広まりました。本地(ほんじ)とは、「仏」のことで、それが人々を救うために仮の姿として現れたのが「神々」垂迹(すいじゃく)であるという考え方です。仏教が優位の考え方でありますが、当時は、日枝の神は釈迦如来(しゃかにょらい)伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)は大日如来、熊野の三社は阿弥陀、薬師、観音を本地として仮に現れたものと理解されました。
鎌倉時代になると神道の体系化が進み、天台宗系の「山王神道(さんのうしんとう)」と真言宗系の「両部神道(りょうぶしんとう)」が生まれました。それぞれ、天台宗の教理、真言密教にもとづく神道の流れであります。
つまり日本は、仏教が伝来して以来、その考えをしっかりと受け止めながらも、いままでの神々の信仰も叶うような社会を創り上げていったという、世界でも珍しく宗教に寛容な国であるといえるのではないでしょうか。

グラコム2005年11月号掲載

神道の教えと歴史についてC

前回は鎌倉時代までのお話をしましたが、その後の鎌倉時代の末期から南北朝の時代には仏教から独立した「伊勢神道(いせしんとう)」が確率されたのです。なぜなら、そのころは天皇を中心とした貴族の政治体制が崩壊し始めたときであり、貴族の体制側にいる人間にとっては天皇家を中心とする宗教観を確率することが重要なことであったのです。つまり「伊勢神道」は古代の天皇を中心とする体制の復活を目指し、仏教を優位な立場と考える本地垂迹(ほんじすいじゃく)説に反対の立場をとったのです。その後室町時代には、吉田兼倶(よしだかねもと)によって「唯一神道(ゆいいつしんとう)」が唱えられました。これは「仏教は万法の花実、儒教は万法の枝葉、神道は万法の根本」と唱え、仏教主体の本地垂迹に対して、神道がすべての根本であり、仏教はその根本から生まれた花実であるというものであります。この「唯一神道」は、道教・儒教・仏教の教えを取り入れ、真言密教の理論により、加持折祷も行ったことから庶民の間に広く浸透しました。
さて、江戸時代になると各家庭に祀る神棚が広く普及し始めました。これは、伊勢神宮の御師(おんし)が全国を回って神札(しんさつ)を配布し、その神札を祀るための神棚が必要になったことが一因です。また、同時期に江戸幕府は仏教を政治の統制下に組み込み、檀家制度により、民衆も所属する寺院を通じて幕府の支配に組み込まれていきました。そのような江戸幕府の宗教政策の中で幕末には、国学者の平田篤胤(ひらたあつたね)が「復古神道(ふっこしんとう)」を唱えました。これは、日本古来の信仰に基づいた神道であり、仏教等は外来宗教で、それを排除することで本当の神道の道が開けるというものでありました。つまり、平田篤胤の教えは国粋主義的なもので日本を世界の中心に置き、様々な解釈を行ったのです。

グラコム2005年12月号掲載

神道の教えと歴史についてD

前回は幕末までのお話でした。つづきをお話いたします。
さて、明治維新が起こり、政府の宗教政策の立案者には「復古神道」の信奉者が多かったこともあり、仏を主とし、神を従とする神仏習合は徹底的に批判され、神道の国教化政策が推進されました。宗教政策を担当する神祇官(じんぎかん)が再興し、同時に「神仏分離令」を発したのです。そのことにより、各地で寺院や寺社に祀られていた仏像や仏具などが打ち壊されるという激しい「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」が起こりました。
一方、明治政府は神社と別に、数多くの宗教活動を行う団体の中から神道を信奉する民衆宗教団体を教団として認めることによって、布教活動を許可し、国民の精神生活の柱となる部分を培おうとしました。この時に勅許(天皇からの直接の布教許可)を受けた、のちの「神道十三派」と言われる教団が「教派神道(きょうはしんとう)」と総称されるようになったのです。有名なものは、天理教(てんりきょう)・金光教(こんこうきょう)・黒住教(くろずみきょう)などが上げられます。そして、この「教派神道」は、教祖や経典を持つことが、それまでの神社神道と大きく異なる点でありました。
前述の流れを受けて明治時代以降、日本は天皇を中心とした天皇制の国家となり、それにより神道は国家の定める宗教、つまり「国家神道」となりました。これは、天皇家の祖先である「天照大神(あまてらすおおみかみ)」を祀る伊勢神宮を全国の神社の最高位と位置づけ、各地の神社の統廃合をすすめ、一村一社制をとっていったのです。また神宮は公務員とし、祭祀(さいし)のみを執り行い布教活動は禁止しました。 つまり、国家神道となったことで神道の宗教的な力は薄められてしまったと考えられます。